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平成28年1月の法話 
「最初の一歩」

「毫釐(ごうり)も差あれば天地はるかにへだたる」(道元禅師)

何事においても最初の一歩を間違えると、とんでもない方向へ行ってしまいます。

髪の毛一本ほどのわずかな誤りでも進むにしたがってどんどん大きな誤りとなって、

結果は天と地ほどの違いとなります。

どんなに努力しても最初の方向性を間違えば、それは良い結果に近づくどころか悪い結果を生み出します。

では正しい方向を見定める術(すべ)は何でしょうか。

それはお釈迦さまのことば お経をよりどころとすることです。

お経の経は縦糸の意味です。横糸は差し替えることでいろいろな綾を表現しますが、縦糸は不変です。

時代が変わっても暮らしがかわっても、決して変わることのない真理を説くのがお経です。

 

                      教化主事 也足寺  吉田 一道

 

 

 

平成28年2月の法話   「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(道元禅師)

 

生を明らかにし死を明らかにする。わたしたちは生まれてから死ぬまでに様々な問題に遭遇します。

そんな時、その悩みを明るみに出す事で積極的に不安を取り除こうとする姿勢が仏教徒として一番の心がけです。

試験問題には正解が必ず一つありますが、生死(しょうじ)の問題は必ずしも答が一つとは限りません。

あるいは一つも正解がない問題に立ち向かわねばならない時もあるでしょう。

そんな時、おおざっぱに悩めば不安は膨れる一方です。

一人で悩むと思考の袋小路にはまります。孤独は不安を増幅させます。

そこで周りの人に助けを求めましょう。

深刻な悩みほど人には相談しづらいものです。そこを思い切って行動しましょう。

相手に打ち明け、問いに答えるうちに、今まで気付かなかった見方も生まれることでしょう。

第三者のとらわれのない意見は貴重です。

おそらく一件落着となるような的確な答えは返ってこないでしょう。

しかしいっしょに考えてくれる人がいるだけで重苦しい気持ちは開放されます。

「どうしてもどうにもならない事」でも「なんとかなりそう」な希望が湧いてくるのではないでしょうか。

そこからはじめましょう。

                                                                                                     教化主事 也足寺  吉田 一道

 

平成28年3月の法話  「心の働きをコントロールする方法」

 

私たちは、何事も心によって行動しています。思わずカッとなって怒ったり、怒鳴ったり、

時には殴ったりするのも心の働きです。人間関係がうまくいったりいかなかったりするのも心の働きです。

現代は、インターネットで買い物が出来る便利な社会となりました。

人と人との交流も出来ますが、文字と映像では、相手の心まで見ぬくことは出来ません。

だから、犯罪につながったりもするのです。情報化社会になって心を見失いがちですが、

平常の心を失わないためには、「一旦停止」することです。この方法が坐禅です。

坐禅は、心の持ち方一つでいつでも何処ででも出来ます。電車の中でも、バスの中でも、お仏壇の前でも、

1分でも、2分でも静かに呼吸を整えて、心を落ち着かせればよいのです。

心を集中することによって、ものごとのあるべき姿、対応の仕方を見きわめることができるのです。

 

                             篠山市 琴松寺  平和 宏昭

平成28年4月の法話

 

命の重さがだんだん軽くなっています。人間の本性は悪なんでしょうか

皆さん「二八の法則」ってごぞんじでしょうか?

私たちは、蟻は働き者と思っていますが、実は働いているのは全体の二割だけで、あとの八割は遊んでいるそうです。

ところが面白いことに、その二割だけ取り出してみると、なんとその中の八割が怠け始めるそうです。

逆に八割の怠け蟻だけにすると、その中の二割が働き始めるそうです

この法則、人間にも当てはまるんです。あるテレビ番組で幼稚園児を観察したところ

遊び玩具を片付ける子が二割、その片付ける園児だけを遊び場から出してみると

片付けなかった八割の子のうちの二割の子が片付けるようになったんです。

私、これを見ていて、仏教が教えるように、人間は本来悪でも善でもないんだなと思いました。

絶対的な悪人もいないし、絶対的な善人もいないんです。私たちはご縁の中に生き、生かされているんです。

縁によって八割の怠けもの・悪者になることがあるかもしれませんが、

別のご縁によって二割のお役になることだってあるんです。

とするならば、いいご縁に触れることによって、いい生き方ができるわけです

いいご縁は仏の教えの中にあります。

静かな心・慎む生き方・堪える心・真剣な生き様・与える心など

仏の教えに照らされた生き方をしましょう

 

                                    篠山市 願勝寺 岩田 雅之

 

 

 

平成28年5月の法話  「心の向きを少し変えてみる」

 

私たちは、家庭や職場、地域の人たち、こうした人間関係の中で、迷い、苦しみ、悩み、

そして喜びながら生きているのです。自分だけが迷ったり、苦しんでいるわけではありません。

「あの人は嫌いだ」と思ってしまいますと、相手も同じように「嫌いだ」という感情をいだきます。

ちょっとしたことでも「怒るクセがつきますと、いろんなところで人間関係の問題を起こして苦しむことになります。

毎日の生活の中で自分の気持ちを周りに広げてみて、相手の気持ちを理解してみようと心掛けることが大事です。

例えば、満員電車に乗ったとします。「ああ混雑していやだなあ」と思いますね。

こんな時、「この電車に乗っている人も自分と同じ気持ちなんだ」と、他人の気持ちを想像してみるのです。

その瞬間、今までとは違う心が生まれてきます。

自分か変わらなければ周囲は変わらないのです。

                            篠山市 琴松寺 平和 宏昭

​  平成28年6月の法話

子供のころ、漫画やアニメを見ては便利で都合のいい近未来を想像し夢見たものです。

困ったときや苦しいとき、助けてくれる夢のような発明がされることを。

私にとって、その代表がタイムマシンでした。

誰もが「あの時に戻ってやり直したい」「今ならこうするのに」と思ったことが

一度や二度あることでしょう。

でも、当然ながら過去にさかのぼってやり直すことなど出来ません。

それどころか、たった1秒前にすら戻れません。

だからこそ、今を大事にしよう。今その瞬間の「いのち」を大切にしようと我々は願い生きるのです。

そしてその時その時「いのち」が積み重なって1分、1日、1年となりやがて私たちの人生となるのです。

今際の際、いい人生だったと心底振り返ることができるよう

今、その時その瞬間の「いのち」を生き切り、生かし切りましょう。

                               篠山市 観音寺 紀本 亘隆(宗務所布教師)

平成28年7月の法話 「 喝(かつ)!」

今日において、みなさまも時に耳にされ、知られている言葉の一つだと思います。

 「喝」は禅寺に於いて、

・叱りつける

・指導するものが迷っている者を導く手段

・悟りをしる道しるべとして

などとして大きな声で「喝」と叫び叱咤激励するときに唱えます。

お葬式の時に「引導」といって、葬儀の作法に亡き人との決別の一句の引導の中に「喝」と唱えます。

己の全身全霊をもって故人のこの世との未練を断ち切り極楽浄土へ

そして、私たちが生きるこの世の無常を示すものでもあるのです。

厳しくもあり、親切でもある「喝」。何か心配事や、身動きが取れなくなったら

「喝」と言葉の中にある言霊の力を信じて大きな声で口に出してみたらいかがでしょう。                               

                                            篠山市 長源寺 溝口 泰守(青少年教化員)

                                      

​平成28年8月の法話

お盆と申しますと、お墓やお仏壇があるお宅では、家族ともになってお墓掃除をしてお参りし、

家ではお仏壇にお飾りをしてご先祖様をお迎えいたします。

中には兄弟親族が集まり賑やかに過ごされることと思います。

これはご先祖さまからの途切れることのない命のつながりがあってこそのことであります。

いや、墓も仏壇も家にはないと言われる方も、やはりご先祖様からの命のつながりの中で

今があるということに疑う余地はないでしょう。

この世の中で一番大事なものは何でしょうか?

それは「命」です

ご先祖様から授かった「命」こそが一番大事であり、その命をどのように生きるか、生かすのかが大切なのです。

「修証義」の中に「願生此娑婆国土(がんしょうししゃばこくど)しきたれり」という一節があります。

この世に生まれたいという願いをもって生まれてきたということであります。

願って生まれてきたのですから、この一日一日を無下に過ごすことの無いよう

それぞれの命を真剣に生き、いろいろなご縁を大切に充実した日暮しにいたしたいものです。

その道しるべに仏教があります。

                               丹波市  常照寺 山口 仙生(宗務所布教師)

​平成28年9月の法話

今年1月に第一子が生まれました。

毎日悪戦苦闘しながら、子育てに励んでいます。

小さいながらも必死に生きる子供の姿に、命の尊さを深く感じています。

命には絶対的な意味があります。

「命の意味」は「不可思議」です。

私たちの「人生の意味」は、その「不可思議」に気付き続け、「仏の慈悲」に目覚めてゆくことにあります。

「命の意味」は生まれてから死ぬまで、例えそれがどんな状況であっても一貫して変わらぬモノとして存在しています。

命にそういう絶対的な意味があればこそ、命に尊厳が認められるのです。

差別、自殺、現代の様々な問題は、私たちの人生に「命の意味」が欠落していることから生まれているように思います。

が子に対する眼差しで人と接し、命の尊厳を見つめ、人を支えることは、

今の時代にあって最も必要なものだと思います。

                                                                                    丹波市  興禅寺住職  森野 大乗(青少年教化員

平成28年10月の法話

 

「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。」      

                                (『ブッダのことば』中村元訳 岩波文庫)

 

言葉はとても大きな力を持っています。 

たった一言で人を幸せにすることもあれば、反対に深く傷つけてしまうこともあります。

お釈迦さまは「口の中の斧」という表現を使って、悪い言葉を使うことは人を傷つけるだけでなく、

その言葉を発した自分の心を汚すことにもなり、つまりは自分自身を傷つけることだと教えてくれています。

では、人も自分も傷つけない言葉とはどんなものでしょうか。

仏教ではそれを「愛語(あいご)」と言います。

愛語は、いつくしみの心から発せられる、人を大切に思いやる言葉です。

毎日の生活の中で愛語を心掛けていくことは、

「言葉」というものをとても大切にするお釈迦様の心にかなう生き方なのです。

口の中に斧がある。そしてそれは常に自分にも向いている。

このみ教えをしっかりとかみしめ、互いにあたたかい心を生み出す愛語の実践につとめてまいりましょう

                          丹波市 妙音寺 住職  谷  博雄 (宗務所布教師)

平成28年11月の法話

「同事というは不違なり。自にも不違なり他にも不違なり。

    海の水を辞せざるは同事なり。このゆえによく水集まりて海となるなり」(道元禅師)

互いに協力して事を成すということは、自分と他人との違いがなくなり、すっかり溶け込んだときに成り立ちます。

自分が相手の目線でふるまい、相手もまた自分のふるまいにすすんで同調した時にはじめて成立するのです。

たとえば海がどんな水でも分け隔てなくすべて受け入れるように、

水もまた海に溶け込むことを拒まないからこそ大海となるのです。

さらにこんなたとえはどうでしょうか。

巷では、「お母さんに赤ちゃんが選べないように赤ちゃんにもお母さんは選べない」といいます。

本当にそうでしょうか。実は赤ちゃんはそのお母さんを目指して生まれてくるのではないでしょうか。

同じようにお母さんはこの赤ちゃんだからこそ命を懸けて産むのでないでしょうか。

助ける者も助けられる者もともに救われる行いが同事です。

                             教化主事 丹波市 也足寺住職 吉田 一道

平成28年12月の法話

 

「過ぎ去れるを追うことなかれ,未だ来たらざるを念(おも)うことなかれ

過去 そはすでに捨てられたり,未来 そは未だ到らざるなり

ただ今日 まさに為すべきことを熱心に為せたれか明日 死のあることを知らんや」

                                                                        《 法句經 》

 

私には20年来の美術家の知人がいます。彼はかつて趣味の登山の最中に滑落、

大怪我をして死に直面し、九死に一生を得た経験から、

「明日、明後日ではなく今日、今この時をしっかりと見つめる姿勢が身についた」と言い、

「膨大な量の作品を日々完成しているつもりで制作を続けている。

日々の制作はある目標地点に向かっての過程では無く、常に『いま・ここ』を表現している。」と話します。

お釈迦様は『法句經』のなかで、過去に囚われたり未来をおもい患うことなく、

精一杯『今』を生きるようにおっしゃっています。

私たちは、ともすれば過去の失敗を引きずって後悔の淵から抜け出せなかったり、

あるいは将来のことを思い悩むあまり、今という自分の足元が見えなくなったりします。

しかしながら「失敗が人間を駄目にするのではなく、失敗にこだわる心が人間を駄目にする」と言われるように、

失敗を次の成功に生かすためにも『今』を精一杯生きるべきではないでしょうか?

残すところわずかとなりました今年ですが、一日一日を大切に、精一杯『今』を生きていきたいものです。

 

                                                                                                                         豊岡市 長源寺住職 木下 理晃(青少年教化員)

平成29年1月の法話          かくれんぼしてる「ありがとう」

 

私たちは普段、相手に何かして頂いた際に「すみません」「ごめんなさい」という

言葉をよく耳にします。実はこれらの言葉、「ありがとう」という言葉に置き換えられる場面が多くあります。

外国の方からすれば、『なぜそこで謝罪の言葉?』という感じでしょうが、

日本という環境の中で生きてきた私たちは、当たり前に使います。

日本人特有の民族性もあるでしょうが、感謝の心を内に持ちながら、更にへりくだった形で「すみません」「ごめんなさい」を使います。

同じような場面で、「どうも」という言葉を使う時も、その後に「ありがとうございます」

の言葉が隠れていることを、使うほうも、使われるほうもちゃんと理解していて、ほとんどの場合暗黙のうちに通じます。

同じ場面で子供たちはどうでしょう?して頂いたことに対して、笑顔でまっすぐに

「ありがとう」の言葉が返ってきます。それを受け取った私たちは、そのまっすぐな

「ありがとう」に私たちも自ら笑顔になり心が晴れやかになります。

奥ゆかしい事も美しく、謙虚であるのも大切なことです。

それをちゃんと心に持ったうえで、いろんなところに隠れている「ありがとう」を表に出してみてはどうでしょう。

場合によっては「すみません」より「ありがとう」の方が感謝が相手に響き、使う自分の

心も明るくなるのではないでしょうか。私も常々使える場合には「ありがとう」の方を

使うように心掛けるよう努力しています。皆様も自分の言葉に隠れている「ありがとう」を探してみませんか?

もしかしたら、それを見つけることで、普段見えてなかった感謝や幸せも見つかるかもしれませんね。

                                                                               豊岡市 長見寺 住職 山縣 伸成

平成29年2月の法話

 

書道には臨書と言う勉強方法があります。

臨書とは日本や中国の名蹟をお手本に字形や線を真似、学習することを言います。

臨書は書道を志す人間には最も重要な基本と言われています。

私は大本山永平寺での修行中、本山七十八世宮崎奕保禅師のお側に仕えさせて頂く機会がありました。

宮崎禅師は

 「学ぶということは真似るということなんだ。

  善き人に会うて善き人の真似をするんだ。真似ることで学ぶんだ。

  一日や二日でやめないで続けるんだ。三日真似たら三日の真似、一年真似たら一年の真似、

  十年真似てもそこで止まったらこれも十年の真似、一生真似たらほんまもんや。」

このようにお話をされておりました。

じつは真似るということはとても大切なことであり、

本物になる為の道であるということなのです。

                                      豊岡市 誓願寺住職 河合 正志(宗務所布教師)

平成29年3月の法話

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われます様に、春分と秋分の頃は季節の変わり目で、前後7日間を≪移り彼岸≫と言いまして

ご先祖様に報恩感謝の気持ちを表すために、菩提寺にお参りしたりお墓参りをしたりいたします。

彼岸とは彼の岸と書くように「向う岸」ということです。

反対にこちらの岸を此岸と言い、皆様が生活している、楽しいこともありますが、苦しみ悩むことの多くある現実の生活を言います。

こちら岸(悩みの世界)から、彼の岸(悟りの世界)へ到り、本当の生きる喜びを得るための反省の日でもあります。

お墓参りをして、自分をこれまでに育ててくれたご先祖様に、

今家族が立派に生きていることを見ていただき安心していただくのも大事な事ですが、

それとともに自己を顧みて、理想の世界に到れるように反省をすることも大事な事なのです。

お墓参りだけではなく、自己を見つめなおす機会としてお彼岸をお過ごしいただければと思います。

 

                                                                                                                             豊岡市 吉祥寺 副住職 伊藤 祐介(青少年教化員)

                         

平成29年9月の法話

            「プチッと般若心経」

 

  般若心経は600巻もある大般若経をギュッと凝縮してわずか262文字であらわした大変短いお経です。

  冒頭の「観自在菩薩~」から始まって「~舎利子」までの28文字で、

観音さまが「空」について舎利子に説くその情景を説明しています。

ここまでで全文字数の一割も使っています。となればこれはとても大事な前書きと言えます。

  何が大事なのか。それは観音さまが舎利子に説くという点です。

舎利子はお釈迦さまの弟子の中でも智慧第一と言われ、あらゆる分野に通じた天才です。

聞き手として飛び抜けて智慧に秀でた舎利子をあえて選んでいることで

「空の思想はとても難しくて一般の人の理解を超えていますよ」とやんわりと注意しているのです。

  ですから無理に理解しようとする必要はありません。

一文字一文字にこだわらず、日常の分別を離れて、素直な心で口に出してお唱えすることが、般若心経への正しい向き合い方です。

それがこのお経を262文字のコンパクトなボリュームに抑えた理由です。

  繰り返し繰り返しお唱えすることで、なんとなく、ぼんやりと般若心経の世界が身近になってくるのではないでしょうか。

「ギャーテーギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー   ボージーソワカー」

                                宗務所 教化主事 也足寺住職 吉田 一道

平成30年3月の法話

昨年、法話の巡回で遠方に出かけたときのお話です。新幹線から乗り継ぎ、昼食後在来線に乗り換かえました。

少しウトウトしている時、車内放送で目を覚ましたときの事でした。一人のご婦人に目がとまりました・・・・

その女性は放送の駅で降りようと出口に向かう人たちの列に並ぶ、

一人の男性を目で追いながら立ったり座ったりしているのです。

皆さんは、特急列車の背もたれに、自分のチケットを入れるホルダーをご存知でしょうか

何気なしに見ていると、そのご婦人の目は、ホルダーの場所と男性を交互に追っていました。

ご婦人は男性が忘れたチケットにいつ気がつくのか、気が付かないかと心配していたのでしょうね。

しかし、降り口に向かう男性は、自分がチケットを忘れた事に全く気づいていないようでした。

列車が駅に停まると、辛抱たまらずご婦人は男性が座っていたところのチケットホルダーからチケットを抜き取り、

男性のほうに駆けていきました。その後、どうなったかは・・・

ただ席に戻ったご婦人は席に戻り隣の方と笑顔でお話されていて隣の方も笑顔でした。

知っているのに知らないふりをすること、見ているのに見ていないふりをすること、

聞いているのに聞いていないふりをすること

 「それをしないこころ」がホンモノの布施ではないでしょうか

お彼岸の実践目標の中で「六波羅蜜」の第一番目に「布施」があります。

たくさんありますお釈迦様の教えの一つです。施す、お金、物に限らず

私たち、胸に手を当てると案外、知らない顔、しらないふりをしているのではないでしょうか。

ホンモノの布施を実践・実行をしていきましょう

                               特派布教師 丹波市 観音寺住職 平岩 浩文

​平成30年4月の法話

貧者の一灯

あるとき万灯供養が行われると聞いた貧しい女性が、なけなしのお金を差し出して粗末な灯明を作り、

立派な灯明がたくさん並ぶその中にそっと置いて去ります。

日暮れから華やかな万灯供養会が催され、やがて一晩が過ぎて夜が明けました。

ひっそりと静まり返った境内では、灯明はすべて燃え尽きています。

しかし真心のこもった彼女の灯明だけは依然として灯り続けて、

消そうとしても消すことすら出来なかったというのです。

富める者が財力にものを言わせて供える万灯よりも、

貧しい者の精一杯のお供えの方がはるかに尊いたとえとして使われます。

加えてこの話は、つつましいけれども長く続けられる生き方を教えてくれています。

たとえば宇宙から眺めた地球の夜景は、日本の地形がはっきりわかるほど輝いています。

ネオンのあかりや街灯、コンビニ、長距離トラックなど人工の光です。

このあかりは夜でも活発に行われている経済活動の証です。どの国よりも光り方が際立っています。

しかし日本のエネルギー自給率はわずかに8%です。

世界でもとびぬけて低い自給率の国が、エネルギーを激しく消費している姿です。

青く輝く美しい地球。その昼の景色は宇宙飛行士におおきな感動を与えることはよく知られています。

しかしその反面、夜の地球に輝く不気味な灯かりは見た者におおきな不安を与え、危機感を募らせるのです。

過剰なもてなしは環境には大きな負担となります。良いように見えてもかえって弊害となるのです。

経済力や科学力にものを言わせてぜいたくに暮らす国は、次の時代にはみな消えてしまって、

残ったのはつつましい暮らしをする人々の国だけだったという解釈は思い過ごしでしょうか。

                                                                                                                                  教化主事  丹波市 也足寺 吉田一道

​平成30年5月の法話   地獄の長箸

老人が地獄と極楽を見学する話が「地獄の長箸」という仏教説話です。

老人はまず地獄に連れて行ってもらいます。

ちょうどお昼どきで、おおきな丸い食卓いっぱいにご馳走が並んでいます。

周りには人数分のお箸がありますが、それは身の丈ほどもある長いお箸です。

食事は始まるのですが、地獄の人々は、箸が長すぎて自分の口に運べません。

それでも我慢ができないので、向かいの相手が箸でつまんでいるご馳走を直接口で奪い取ろうとします。

向かいの相手も同じように他の相手のご馳走を奪おうとしています。

皆がそんな様子なので誰一人満足な食事が出来ないまま、お昼が終わってしまいました。

次に老人は極楽に連れて行ってもらいます。極楽も同じようにお昼どきです。

大きな丸い食卓にいっぱいご馳走がならんでいます。周りには人数分のお箸がありますが、

そのお箸がとても長いことまで、地獄でみた光景と同じです。

ところが食事の様子はまるで違っていました。

長いお箸でご馳走をつまむと向かいの相手の口元へと差し出します。

すると相手も同じようにこちらも人の口元へとご馳走を差し出します。

互いに助けたり助けられたりしながら食事はどんどん進み、

お昼が終わる頃には食卓のご馳走はすっかり片付き、みなお腹いっぱいで満足気に部屋を出て行きました。

それを見届けた老人はこの世に連れ戻されました。

地獄と極楽は、環境や条件に何一つ違いはありませんでした。

違っていたのはその世界に住む人の心が違っていたのです。人の心のありようが世界を作っていたのです。

 

                         教化主事 丹波市 也足寺 吉田一道

平成30年6月の法話    吉祥天と黒闇天

涅槃経というお経にこんな話が出てきます。   大きなお屋敷に女の人が訪ねてきます。

家の主人が応対に出ます。「あなたはどなたですか」

するとその女性は「私は、吉祥天です。吉祥天とは幸福の女神です。

私の行くところは必ず幸せが訪れます」と答えます。

それを聞いて家の主人はたいそう喜んで、家の座敷へと招き入れようとします。

すると吉祥天の陰に隠れるようにしてもう一人の女性がいっしょに家に上がり込もうとします。

それに気づいた主は急いで彼女の行く手をはばんで「勝手に上がってもらっては困ります。

あなたはどなたですか」と問いただします。もう一人の女性は「私は黒闇天です。

わたしの行くところきっと不幸が訪れます」と答えます。そこで主人は

「そんな疫病神に入ってもらっては困る。さっさとお引き取りください」

と黒闇天を外に追い出してしまいます。
するとさきほど家の中に招き入れたはずの吉祥天までもが家の外に立っています。

そして吉祥天はこう言います。「吉祥天と黒闇天は姉と妹のような関係です。

私たちはいつも二人一緒に行動しています。

黒闇天を受けいれていただけないのなら吉祥天も出て行かねばなりません。」

そういって吉祥天は去っていってしまいました。という話です。

幸せと不幸、よろこびと悲しみ。それは紙の表と裏のような表裏一体の関係です。

どちらか一方だけ、自分に都合のよい方だけを選びとることは出来ないという話です。

 

              教化主事 也足寺  吉田一道

平成30年7月の法話  いのちのローソク

寿命は昔から皆が一番知りたかった関心事でした。それを背景にうまれた話が「いのちのロ-ソク」です。

人が生まれると、あの世にはローソクが一本ともります。ひとりひとりのローソクは違います。

長いローソク短いローソク。太かったり細かったり、勢いよく燃え尽きるものもあれば、

今にも消えそうなようで灯り続けるローソクもあります。

いずれのローソクも消える時が、命の終わり・寿命と考えました。

遺伝子の中にも寿命を決めるものがあり、テロメアと呼ばれています。

それは細胞が分裂を繰り返すたびにどんどん短くなります。

そしてある一定の短さになってしまうともうそれ以上細胞分裂が出来なくなり、その細胞は死んでしまいます。

テロメアの長さを知れば、あとどれくらいの寿命かが判るのです。

あくまでも細胞レベルでのはなしですが、テロメアはかつて信じられていた「いのちのローソク」のようです。

しかし、寿命が長いほうがしあわせだとも、優れているともいえません。

たとえば、短い期間の指導が後世に多大な影響を与えた例は数々あります。

曹洞宗の開祖、道元禅師が、越前の永平寺で弟子たちと修行を共にした期間はわずか8年足らずです。

吉田松陰は、萩の松下村塾で明治維新の立役者、高杉晋作・伊藤博文などを門下生として指導しましたが、

期間はわずかに2年余りです。

イエスキリストは、 洗礼師ヨハネについて洗礼後、本格的に活動した期間はわずか3年あまり。

3年後には処刑されています。

いずれもたいへん短い期間でしたが内容は極めて充実したものであったろうと想像できます。

その日その時を一生懸命生きることの積み重ねが人の一生であれば、

たとえ短い一生であっても、一生を生き抜いたという価値に何ら変わりはないのです。

 

                      教化主事 丹波市 也足寺 吉田一道

​平成30年9月の法話

今日彼岸 菩提の種を まく日かな

「彼岸」とは、今われわれがいるこちら側の岸「此岸(しがん)」に対することばで、

向こう側の岸ということです。

煩悩・迷いの川を乗り越えた悟り、理想の世界のことで、そこに至ることを「到彼岸」といい、

サンスクリット語でパーラミッタ「波羅蜜多」と申します。

「菩提の種をまく」とは「恩に報いる生活をしよう」ということです。

1人のわたしには2人の父母がいて、4人の祖父母、そして8人の曾祖父母がいます。

こうして3代さかのぼれば14人のご先祖さまのご縁があります。そして25代さかのぼると

実に67,108,862人のご先祖さまのご縁をいただいていることになります。

今日こうして私が生きているのは、限りない恵みを残してくださったご先祖さまあればこそです。

お彼岸は、ご先祖さまに特に思いをいたす一週間にいたしましょう。

​                     宗務所布教師 篠山市 観音寺 住職 紀本 亘隆 

「坐る」
 

          死のうと思う日はないが

          生きてゆく力がなくなることがある

          そんなときお寺を訪ね

          わたしはひとり

          仏陀の前に坐ってくる

          力わき明日を思うこころが

          出てくるまで坐ってくる

 

これは、仏教詩人である坂村真民さんの「生きてゆく力がなくなるとき」と題した詩です。

曹洞宗では何年か前に、福島県弘安寺のご本尊である十一面観音さんの迫力あるお姿に添えられて、

この詩が書かれたポスターが作成されたことがありました。

私はそれがとても気に入っていて、今でも本堂のよく目立つ場所に貼っています。

昔、祖父でもあった師匠から「悲しいとき、つらいとき、又どうしていいかわからない、

そんなときは「本尊さまの前で手を合わせてじっと坐りなさい。仏さまが力を与えてくれるから」

と教えられました。

それで大人になった今でも思い悩むことがあると、ひとり静かに本堂で坐ることにしています。

向き合った仏さまは、いつもと同じ穏やかな顔をしておられるだけで何も答えてはくれません。

ただ、そうやってじっと坐っていると不思議と心が落ち着き、

顔を上げて一歩前に進む勇気が湧いてくるのです。

お釈迦様は、人生は苦であると言われました。日々の暮らしの中で、くじけそうになることや、

死のうとまでは思わなくても、生きていく力がなくなることは誰にだってあります。

そんなときは、お寺やお仏壇の前で静かに坐ってみてください。

真っ直ぐに背筋を伸ばし、息を調えて坐ると心が調い、自分を見つめることができます。

仏さまのぬくもりを感じながら坐っていると、明日を思う心がきっと湧いてきます。

仏さまは、私たちにその力を与えてくださるのです。

                            兵二宗務所布教師 妙音寺住職 谷 博雄

平成30年11月の法話

お釈迦さまの仏教

世界には把握できないほどたくさんの宗教があり、様々な教えがあります。

​その中でも世界三大宗教と呼ばれ、代表されるものがキリスト教・イスラム教・仏教です。

仏教の中でもたくさんの宗派があり、それぞれ違う開祖様がおられ、違う教えがあるわけですが

元をたどれば、それらの宗派の原点はお釈迦さまであって、お釈迦さまの開かれた仏教が

枝分かれをして、今の様々な宗派につながっているわけです。

お釈迦さまは私たちが生きていくうえで、必ず直面する悲しみや悩み、限りの無い欲望、怒りなど

人々が抱える苦しみの原因を究明し克服されました。

苦しみの原因というのは煩悩といってあらゆる物事に執着することで、

煩悩を減らすことができれば、苦しみも減るということです。

お釈迦さまはその煩悩を克服する方法などを伝えるためにインド中を旅し教えを広め

いまでは世界中に仏教は伝わりました。

私自身、さまざまな物事に執着し多欲ではありますが、それが自分自身を苦しめている

根本的なものと自覚し自制していきたいものです。

                           教化指導員 豊岡市 常光寺 福井 易宗

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