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平成31年1月の法話 「濁りのない心」

新年あけましておめでとうございます。

本年も皆さまにとりましてより良き年となりますようご祈念申し上げます。

さて、先日あるお寺の掲示板に印象的な伝道句がありましたので、ここで紹介致します。

口が濁れば愚痴となり、

意志が濁れば意地となり、

徳が濁れば毒となる。

「くち」が「ぐち」、「いし」が「いじ」、「とく」が「どく」と言葉が濁ってしまうだけで、全く正反対の言葉になってしまうのですね。

ここでいう「濁り」とは、

 

・貪(とん)=むさぼり求める心

・瞋(じん)=怒りにまかせた憎悪の心

・癡(ち)= ものの道理がわからぬ愚かさ

 

に侵された煩悩のことを言います。

これら三つの煩悩は、三毒といわれています。毒と表現されているように強い煩悩であり、しかも苦悩の根本的な原因となるものです。煩悩に支配されていると、邪念に振り回され、真実を見極めることができなくなってきます。煩悩が本来の心を濁らせているのです。

濁った心ではありのままを見ることはできません。その結果、迷いや判断の誤りとなり、苦悩となってきます。心を静めて、「濁りのない心」を保つ必要があります。

それでは、「濁りのない心」を保つにはどうすれば良いのでしょうか?

一度立ち止まってみることです。

私たちは毎日毎日、目の前の仕事や家事に追われ、動いてばかりでゆっくり考える機会を逃しています。これでは、心が澄んできません。泥水もしばらくそのままにしておくと、自然に泥が底に沈んで澄んでくるのと同じです。

一度立ち止まるからこそ、正しい判断ができるのです。

年頭に当り、一度立ち止まって、心静かに我が身の行い、心のあり方を振り返ってみてはいかがですか。

 

濁りなき 心の中にすむ月は 波も砕けて 光とぞなる 光とぞなる

                              (道元禅師 傘松道詠)

 

                                   兵庫県篠山市 蔵六寺住職 片瀬道昭(教化主事)

平成31年2月の法話

私たちは、今日と同じ生活が明日も明後日も続くと錯覚しがちです。

今夜家族に「おやすみ」と言って床に就いたら、翌朝も当然のように目が覚めて、今日と同じように「おはよう」といって家族と顔を合わせる。「行ってきます」と仕事に出たら、夕方「おかえり」と家族に迎えられる。一緒にご飯を食べて団欒のあと「おやすみ」と言って就寝したら、また朝を迎え同じように一日を過ごす。もちろん日によって異なる出来事はありますが基本となる生活、特に家族と一緒に居られるという点については明日も明後日もずっと続くと思い込んでいます。人間いつかは死んでしまうものだと頭の何処かでは解っていながら、それが「今日かも」とはなかなか思えません。

 

しかし、私たちは時に「いつもと変わらない毎日が続く」というその思い込みから一気に厳しい現実に引き戻されることがあります。その最たるものが親しい人が亡くなった時でしょう。人の死に直面すると私たちは、今朝目が覚めたこと、今、家族とともに過ごせること、当たり前のように過ごしていた日常の全てが実は「当たり前」の事ではなく、極めて「有難い」、つまり「有ることの困難な」ことであると理解するのです。

 

『修証義』には「時の流れは射放たれた弓矢よりも速く、私たちの命は道端の草に宿った朝露よりも儚い。どんな手段を講じたとしても、一度過ぎ去った時間をもとに戻すことはできないのだ。」と著されています。

 

この世の中で移り変わらないものは何一つありません。全てのものは一瞬たりともその姿を留めることなく、刻一刻と時に随いその姿を変えてゆきます。これを『無常』と申します。無常の世の中では、私たちにどのような明日が来るのか、確たる保証は何もありません。また時は人間の思いと無関係に過ぎ去り、どのような手段を用いても過ぎ去った時間を取り戻すことは出来ません。確実にあるのは「今この時」だけなのです。だからこそ私たちは、今為すべきことを、今為さねばならない。無常だからこそ、二度と戻ることのない人生の一瞬一瞬を無駄に過ごしてはならない・・と示されているのです。

 

ご先祖様方より賜った有難き、そして二度と巡ってこないこの時間、この命です。一日一日は勿論のこと、この一瞬一瞬を有難きものとして、また二度と得ることのできない貴重なものとして、大切に、大切に勤めてゆきたいものです。

                                 兵庫県豊岡市 長源寺住職 木下理晃(宗務所布教師)

 

平成31年3月の法話

今年も早三月、お彼岸の月です。お彼岸には、家族親戚揃ってお墓参りされる方が沢山おられることでしょう。

私には、寒さも和らぎ、日に日に暖かくなって梅や桃の花が咲き、月末には、桜が咲くこの頃になると思い出す事があります。

二十数年前、長女がこの時期に生まれたのですが、師匠が孫の長女に「あと何年付き合えるかな」と話しかけておりました。それから八年後の秋に病気が見つかり、医師からは「桜の花は見られるで

しょう」と宣告されました。結局、梅の花は見ることができましたが、桜の花は見ることが出来ませんでした。

それから十数年が過ぎ、毎年周りの景色は変わらず、桜の花が咲く季節が今年も廻って参りました。

子供たちも成長し家を離れました。あの時、元気だった師匠の姿を今は見ることが出来ません。

しかし、桜の花を見る時、桜の花と重ね合わせることで師匠が偲ばれ、共に生きることができます。

家族全員が揃っての生活が懐かしくもありますが、たとえ、死別でなくても、いつかは子供が成長し離れ離れになる家族が「今日揃って生活できる」これほどの幸せはないでしょう。

彼岸とは「悟り安らぎの世界に到る」ということであります。日々の暮らしの中で気付き、幸せを見出すことが大事なのであります。

                                 兵庫県丹波市 常照寺住職 山口仙生(宗務所布教師)

 

平成31年4月の法話​ 「つながるご縁」

道元禅師さまは、修行道場の規則について記された「衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)」の中で、中国宋代に活躍された黄龍

慧南大和尚さまの言葉を引用され、

「孤舟(こしゅう)共に渡るすら、尚お夙因(しゅくいん)有り、九夏同居(くげどうご)、豈(あ)に曩分(のうぶん)

無からん乎(や)」と示しておられます。「小さな渡し船に共に乗り合わせる。たったそれだけの事でも、前世からの因縁が

あったからだ。ましてや長い間共に暮らし共に修行するという事は、それだけ一層深いつながりがある」という意味です。

 私たちは祖となり子孫となる。親となり子となる。兄弟として姉妹として生まれ合わせる。それは単なる偶然ではなく、

生々世々、つまりは永遠の過去から深い深い因縁があったからです。

 そのことに気付き、そして信ずること、つまりは、毎朝お茶やお水を供え、お線香を献じて仏壇に手を合わせ、読経する

ことは、人情の発露(子供・孫・子孫に対する思い、愛情などの気持ちを表すこと)であり、また子孫として当然のお勤め

とも言えるのです。そして、そのような行いや気持ちを持ち続けることは、直ちに家内円満、子孫長久の礎となります。

 亡くなった方はこの世に存在されないのは確かです。しかしご縁が切れたわけではありません。「亡き人を思い出す人が

いる限り、その人は死んでいない。」こんな言葉があるそうです。あの世とこの世、住んでいる世界が違うだけのことです。

親子は親子、兄妹は兄妹です。これは理屈ではなく、まぎれもない真実です。

                                 兵庫県豊岡市 見性寺住職 河合正志(宗務所布教師)

 

令和元年5月の法話​ 「平和」

実(じつ)にこの世(よ)においては、

怨(うら)みに報(むく)いるに怨(うら)みを以(もっ)てしたならば、

ついに怨(うら)みの息(や)むことがない。

怨(うら)みをすててこそ息(や)む。

これは永遠(えいえん)の真理(しんり)である。

                『ダンマパダ』(法句経)

 

 

かつて世界に向けて語られたお釈迦さまのことばです。

 

第2次世界大戦後の昭和26年、サンフランシスコ講和会議に出席したセイロン(現スリランカ)のジャヤワルデネ代表は、

法句経のこの句を引用して、日本に対する賠償請求権を放棄する旨の演説を行いました。

51か国の代表を前に「憎しみは憎しみによって消えるものではなく、ただ愛によってのみ消え去る」と、仏教の寛容の精神を

示したその演説は、巨額の賠償や、厳しい制裁措置を加えようとしていた他国代表の心をも打ち、その後の日本の国際社会への

早期復帰につながったといわれています。

そんな、日本にとって恩人ともいえる国スリランカで先月、死者250名を超える連続爆破テロが起きました。

あまりにも悲しい出来事です。世界中で、憎しみの連鎖が数々の悲劇を生んでいる今こそ私たちは、それを断ち切るために、

お釈迦さまのこのお言葉を重く受け止め、み教えを学ばなくてはなりません。

5月1日から改元となり「令和」時代が始まりました。

令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められているそうです。

日本人同士だけでなく、国や民族、宗教の垣根を超え、世界中の人々と共に心を寄せ合い、喜びを分かち合える平和な時代を

築いていくことは、私たち仏教徒のつとめであります。

                                  兵庫県丹波市 妙音寺住職 谷 博雄(宗務所布教師)

令和元年6月の法話 「芸能人じゃなくても歯は命」

 6月4日から10日までの間は、日本歯科医師会が実施されている「歯と口の健康習慣」だそうです。

なんでも「6(む)4(し)歯」にちなんでだとか。私もたまに歯医者さんへお世話になることがありますが、

やはりあの独特な空気感、眩しいライト、そして、夢にまで出てきそうなあのけたたましい音には、年を重ねても耐えられません。

芸能人は歯が命、なんてコマーシャルが昔ありましたが、美味しく食事を頂くためにも、歯は大切にしたいですね。

 曹洞宗をお開きになった道元禅師も、「正法眼蔵」の「洗面の巻」において歯磨きの大切さを説かれています。

「天下の出家在家、その口気、はなはだくさし」と書かれている程ですから、当時の人々はかなり臭かったのでしょうか。

鎌倉時代、歯磨きの習慣は、世間にあまり浸透していなかったのかもしれません。

道元禅師は、この著書において、

(楊枝を)よく噛みて、歯の表、歯の裏を磨くがごとく洗うべし。

たびたび磨いて洗いすすぐべし。歯の根もとの肉の表面もよく磨き洗うべし。

歯の間もよく掻いて清らかに洗うべし。

口を漱ぐことをたびたびすれは、漱ぎ浄められる。

その後、舌をこそぎ洗うべし。

と現代にも通じる作法を丁寧に書かれています。柳の木を噛んで、歯ブラシとして使うことなど、

詳しくお示しですが、最も大切なこととして「心に正しき教えを得て、煩悩や私欲、罪悪がなくなり、

心が清らかになりますように」と願い磨くようにと説かれています。

 口の不衛生から恐ろしい病気になることもあるそうですが、なにより、正しく命をいただき、

正しく優しい言葉をかけるためにも、毎日の生活において歯を磨き心を浄め、

身と口と心を綺麗にしたいものです。合掌

                                   兵庫県丹波篠山市 長楽寺住職 安達瑞樹(宗務所布教師)

令和元年7月の法話 「今日の一日を大切に」

 日本は世界有数の地震多発国です。世界の中で日本が占める面積は0.25%であるにもかかわらず、M6以上の地震の10%~20%が

日本付近で発生しています。東日本から四国までの広範囲におよぶ南海トラフ地震についても発生が危惧されています。

地震調査研究推進本部によると、今後30年で最大M9クラスの大地震発生確率が70%~80%に高まると発表されていて、

最高で死者が32万人に達するそうです。

 近年振り返ってみますと、東日本大震災、熊本地震、関西でも昨年発生した大阪北部地震などがあります。

その中でも強く印象に残っているのが、昭和53年(1978)、私が4才の頃に経験した宮城県沖地震です。

死者28名、負傷不明者1,325名と発表がありました。被災した街並みは今では新しく変っていますが、

大変だったことは鮮明に記憶しています。なにげない毎日がある日突然なくなってしまうのは大変苦しい事です。

当時遊んでいた場所、そこにあった建物もほとんどがなくなってしまいました。

 そんな時私は、お釈迦様の「今日すべきことは明日にのばさず確かにしていくことこそよい一日を

生きる道である」という教えに出会いました。誰にでもいつでも出来る教えの一つです。過ぎ去った日は

何をしても戻ってきません、悔いのない一日を送りましょうと言う教えです。

 私はこの教えに出会ってから、今日の一日を大切に、悔いのないよう毎日を送ろうと心掛けています。

今日の一日を振り返る時、心の中で明日もまた有意義に過ごせるように自分と約束をしながら一日を

締めくくっています。

                                    兵庫県丹波篠山市 長谷寺住職 岡田敬章(教化指導員)

令和元年8月の法話 「幽霊」

夏といえば怪談、怖い話も皆さまには馴染み深い夏の風物詩だと思います。

そして怖い話といえば一番に浮かぶのはおそらく、「うらめしや~」の幽霊ではないでしょうか?

髪の毛はざんばらで長い後ろ髪、また手は下に垂れ、足が無く宙に浮いている。おそらくそんな絵も思い浮かぶと思います。

この幽霊の絵ですが、日本で一番古い幽霊の絵というのが富山県のお寺さんにあって、そこのご住職さんは幽霊の絵について、

あの姿は「亡くなった方の姿」ではなく、「亡くなった方を引きずってしまった遺(のこ)された人たちの姿」なんですよと

お話されます。

後ろ髪を引かれるのは、遺された私たちが「今」を生きて行く事しか出来ないのに「昔は良かった」「なんで亡くなってしまったの?」

と在りし日を追い求めている事を指し、また「うらめしや」という垂れた手も、「(私は)もっと一緒にいたかったのに」「(私は)もっと

こんな事をしてあげたかったのに」という身勝手な思いを指しています。幽霊が宙に浮いている姿も、ここでしか生きてゆけないのに

「ここでないどこか」に居場所を求めてしまう心を表しているとお話されます。

みなさまはいかがでしょうか?それぞれに故人を思う気持ちがあると思います。お盆は在りし日の故人の姿を偲ぶ時期でもあります。

どうぞみなさまそれぞれに亡くなった方から頂いたもの、教わったものを思い返して頂き、ご先祖さまに思いを馳せてみてはいかがで

しょうか。

                                      兵庫県丹波市 興禅寺住職 森野大乗(教化指導員)

 

 

令和元年9月の法話 「挨拶」

私たちは挨拶をすることで、お互いの心を通わすきっかけを作ります。

「挨拶」という言葉を調べると、「挨」の字は「押すこと」、そして「拶」の字は「せまる」という意味で、師匠が弟子に、

または修行僧同士が言葉や動作で相手の修行の様子をうかがい、どの程度まで悟りの境地に達しているかをためすことを意味する

そうです。

 最近読んだ記事の中で、挨拶をしない若者が増えてきた、というものがありました。その若者がインタビューで答えていたのは、

「挨拶をすることが時間の無駄である」「同じ人に毎回同じ挨拶をするのであれば、しない方が効率がよい」「挨拶の時間を削って

プライベートな時間がほしい」「挨拶をせずにいきなり本題に入る方がやり取りがしやすい」などの意見でした。

 これは、極端なのかもしれません。

しかし、自分自身はどうなのだろうかと改めて考えた時に、確かにここまでいかなくても、人とのやり取りの中で挨拶をする機会が

多少なりとも少なくなっているように感じました。

ネット社会になり、多くの人がパソコンやスマートフォンを使って一度も会ったことが無い人と交流をする。あるいは知人や友人とも

一日に何度もすぐにやり取りをすることができます。

挨拶せずともやりとりができる。それができるのは、その人との信頼関係があるからです。その信頼関係を作るきっかけは挨拶では

ないでしょうか。

  挨拶をすることにより、お互い心を開き、良い人間関係を作っていきたいものです。

                                   

                                    兵庫県丹波市 明勝寺住職 大菅哲哉(教化指導員)

令和元年10月の法話 「曹洞宗の食事作法」

 過日、当宗務所においてお寺の子どもたちを対象とした徒弟研修会が開催され、小学校3年生から高校1年生までの男女7名の参加を

いただき、私を含め5名の教化指導員が指導にあたりました。

 研修内容は衣や着物の着方、食事作法、お経の読み方、坐禅の仕方です。食事作法では修行僧が普段使用する器に触れてもらい、

曹洞宗の食事の仕方を体験していただきました。

 曹洞宗の開祖道元禅師は、正しい作法で食事をいただくことができれば普段の生活も整うとして食事作法を重視され、食事も修行で

あるとされました。

 また作法だけではなく、偈文(げもん)という仏さまの教えや食べ物に対する感謝、自分自身の行いを反省するといった意味合いの

短いお経もお唱えし、食事をいただきます。曹洞宗では『五観(ごかん)の偈(げ)』という五か条からなる食事の心得をお唱えしますが、その四番目は次の通りです。

 「まさに良薬をこととするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんがためなり」

 ここでは、「動物や植物の命をいただくことで、飢えや渇きを癒やし、私たちの命を繋ぐ薬として、この食事をいただきます」といった

意味になります。

 食事のことを一つとってみても、私たちは決して一人では生きてはいけません。たくさんの人やもののおかげによって生かされている

私たちです。子どもたちにも、生きる基本である食事を通して、感謝の心や命の尊さに気づいてもらえたのではないかと考えております。

                                   

                                    兵庫県豊岡市 常光寺徒弟 福井易宗(教化指導員)

令和元年11月の法話 「冷暖自知(れいだんじち)」

インターネットの普及によって、携帯やパソコンで様々なことが簡単に調べられるようになりました。私は食べることが大好きで

よく自分で料理をします。レシピを調べる時にスマートフォンを使いますが、その通りに作ると非常においしい料理が簡単に作れて

とても重宝しています。

 しかし、その通りにうまく作れても、次回同じものを作ろうと思ったときに、ほとんどの場合作り方を詳しくは覚えていません。

 『正法眼蔵弁道話(しょうぼうげんぞう/べんどうわ)』に、「証の得否は、修せんものおのづからしらんこと、用水の人の、

冷暖をみづからわきまふるがごとし」とあります。

 水が冷たいか暖かいかは、人の説明を聞くより自分で触ってみればすぐに分かることだ。つまり、仏法や禅の真髄は師に教わったり

頭で学ぶのではなく、自らが体験して悟るものだ、ということです。

 レシピ通りに作っても、自分で考えたり失敗を経験したりしていないので、身には付いていなかったのです。自ら試行錯誤して

成功したことは、大きな喜びとともに記憶に残り、一度失敗したことは、次に同じ失敗を繰り返さないように注意するものです。

子どもの教育においても同様のことが言えると思います。

 「これはしてはダメ、あれもダメ」と言葉で制限ばかりするのではなく、様々な体験を通して成功も失敗も経験させてあげることが、

子どもたちを大きく成長させることにつながるのではないでしょうか。

                                     兵庫県豊岡市 吉祥寺副住職 伊藤祐介(教化指導員)

 

 

令和元年12月の法話 「除夜の鐘」

年の瀬も迫り、令和元年も残り一か月を切りました。

年末の風物詩といえば、大晦日に全国の寺院で撞かれる「除夜の鐘」ではないでしょうか。除夜の鐘は、地域や個別の寺院によって

多少の違いはありますが、おおよそ百八声撞くのが慣習となっております。

ではなぜ百八声鐘を撞くかといえば、十二ヶ月、二十四節気、七十二候を足す「気候の変遷を表す説」、

四苦(4×9)、八苦(8×9)を足した「四苦八苦語呂合わせ説」など諸説ありますが、私たちがよく耳にするのは

人間には百八の煩悩があるという「百八煩悩説」ではないでしょうか。

ここでいう「煩悩」とは、

 

・貪(とん)=むさぼり求める心

・瞋(じん)=怒りにまかせた憎悪の心

・癡(ち)= ものの道理がわからぬ愚かさ

 

これら三つの煩悩は、仏教では三毒といわれ苦悩の根本的な原因となるものです。さらにそれらが派生して、百八の煩悩となります。

私たちは人間である以上、こうした三毒(煩悩)を必ず持ち合わせています。考えてみると、煩悩ほど始末の悪いものはありません。

打ち消しても、打ち消しても、次から次へと湧き出てくるものです。

そこで私たちは煩悩とどう向き合っていけば良いかといえば、

自分の心の中にある煩悩に気づくこと、

そして完全に打ち消すことに執着せず、振り回されないよう

上手く付き合っていくことが最善の道であります。

禅の修行道場で鐘を撞く際に、唱える「鳴鐘の偈」があります。

『三途八難 息苦停酸 法界衆生 聞声悟道』

(サンズーハーナン ソックジョウサン ホッカイシュジョウ モンショウゴドウ)

ありとあらゆる者たちが、この鐘の音を聞いて、苦しみを脱して、仏の道を悟りますように、

という願いを込めて鐘を撞くのです。

今年も残すところあとわずかになりました。家中の汚れを落とすのと同じように、

煩悩という汚れを大掃除し、

希望に満ちた新しい年をお迎えしましょう。

                                   

                                     兵庫県丹波篠山市 蔵六寺住職 片瀬道昭(教化主事)

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