top of page

​令和4年1月の法話

「合 掌」

新年あけましておめでとうございます。

本年が皆さまにとりまして、より良き年となりますようご祈念申し上げます。

 

さて、手のひらと手のひらを合わせるのが「合掌」です。合掌の「掌」という字は、「手のひら」を一文字で表した漢字で、別に

「たなごごろ」とも読みます。「たなごころ」とは、「手の心」から派生した言葉で、「手の心」を合わせた中に「まごころ」があると

いわれています。

 右ほとけ 左はわれと 合わす手の なかぞゆかしき 南無のひとこえ

  

という歌があります。

 日本では昔から、右の掌に仏さまの心をいただき、左の掌に自分の心を込めて、これをぴったり合わせることによって、

仏さまと私が一つになることができるといわれてきました。

 それだけではなく、相手の心を右手にいただき、左手に自分の心を込めて合掌すると、その中に相手を思いやる気持ち、感謝の心が湧き上がってきます。

 思えば、両手を合わせているからこそ、殴り合いのケンカをすることもできません。合掌すると不思議と争いや憎しみの心が

減っていき、自然と心が穏やかになってきます。同じ両手でありながら、自分自身の心持ち次第で、良きものにも悪しきものにも

なるのです。

 私たちは朝夕のお参り、食事の際の「いただきます」「ごちそうさま」 家族の無事を祈る時、病気の平癒を祈る時、人に物事を

お願いする時など、日常生活の中で何度も何度も合掌をしています。

一心に合掌している姿は、本当に清々しく尊いものです。

 新年を迎え、今一度「まごころ」のこもった合掌のある暮らしを心がけてみてはいかがですか。

【音声法話】

00:00 / 02:46

​令和4年2月の法話

「共に蒔く慈心の種」

 兵庫県丹波篠山市 蔵六寺住職

片瀬道昭(教化主事)

 私たち僧侶は、み仏の教えを元に多くの方々に人生の道を示させていただいております。その時、伝える手段として「言葉」を

用います。

大本山永平寺を開かれた道元禅師さまは、『正法眼蔵菩提薩捶(しょうぼうげんぞうぼだいさった)の巻』の中で、「愛語は愛心より起こる。愛心は慈心を種子とせり」と示されています。

 慈愛のある言葉は、愛に満ちた心から自然に発せられるものであり、その慈愛に満ちた言葉を投げかけるには相手を思いやる

慈悲心が必要である。その慈悲心の根本となるのが「慈心の種子」であり、この種子は本来すべての人々に備わっているのだとお諭しくださっています。

 さらに道元禅師さまは、「愛語能(よ)く廻天の力あることを学ぶべきなり」と示されており、慈愛のある言葉には天地をも動かすほどの大きな力があると説いておられます。

 この法話を読んでくださっている皆さまは、インターネットという広大な世界からこのページを探していただき、この度ご縁をいただきました。

 しかしながら、ネット世界での「心ない言葉」によって涙を流されている方や、自ら命を断たれた方の報道を目にされたことも

多いと思います。

 私自身、三人の我が子に対し、無意識のうちに心のない言葉を発してしまい、知らない間に心を傷つけ、我が子の涙を見て

″はっ″と気づかされたことが多々あります。

 道元禅師さまの「愛語のみ教え」は約八百年前から現在に至るまで断えることなく伝えられてきました。情報が溢れ、多様化した現代だからこそ、「愛語」の持つ言葉の大きな力が必要となるのです。

 今一度、「愛語は愛心より起こる。愛心は慈心を種子とせり」のみ教えを学び、ともに「慈心の種子」を蒔いていきませんか。

【音声法話】

00:00 / 02:51

 兵庫県丹波篠山市 禅昌寺住職

齊藤宗一(第一教区長)

​令和4年3月の法話

「情けは人の為ならず 学びは己の為ならず」

 標題の前半部「情けは人の為ならず」というのは誰しもがよく知っておられる格言でございます。「情けをかけることは、

その人の為にならない」と誤解釈される格言としても有名です。正しい解釈は「人に情けをかけると、巡り巡って自分に良い

報いとして返ってくる」というものです。

 さて、ご注目願いたいのは後半部、「学びは己の為ならず」という文言です。今回はそのあたりについてお話したく思います。

 つい数日前のことです。私はある研修会に出席をいたしました。そこで私は「チベット問題」をテーマにした講座を聴講させて頂いたわけですが..その内容というのは筆舌に尽くし難い、大変に衝撃的なものでありました。講義が終わり、質疑応答の

時間となった時、先生に質問しようと真っ先に手を上げたまでは良かったのですが、あまりの衝撃的内容を聴聞した直後で

あったが為に、身が震え、涙を抑えきれないばかりの私は、マイクを手にしたまま質問の言葉を発することが出来ないという

有り様でした。

 蛇足ではありますが、講義冒頭、講師であるペマ・ギャルポ先生は、「私は当事者です。当事者ですから感情も入ります。

どうかその点を差し引いて聞いて頂きたく思います」と話されました。それを聞いた私は当然の如く納得し、終始「差し引いて」聴講をしていたのにも関わらず、とてつもなく大きな衝撃を受けてしまったのです。

 話を戻します。このエピソードからお伝えしたいことは「学びは己の為ならず」という想いです。従前、私は「学ぶのは自分の為」ばかりと思っておりました。しかし、それは違う、大きく間違っていた。「自分が学ぶということは、巡り巡って他者の

幸福実現の後押しをする」ということだとようやく気付かされました。聴講中、私は心の中で「知らなかった・・。こんな苦しい思いを背負いながら生きている人々がおられたなんて・・、それらの人々が苦しみの世界から解放される為に、自分が具体的に

出来ることは何だろう。どうすれば手を差し伸べることが叶うのだろう」と想いを巡らした経緯の中での気付きであります。

「学びは己の為ならず」

 このことは〈仏教を学ぶ〉〈仏さまの教えを学ぶ〉にあたっても同様であると捉えられます。自分自身の生きづらさの解消で

あったり、自分自身の精神的安定と向上を図る為にと、仏教を学ばれる動機は人それぞれ様々であったとしても、仏の教えに

触れられ、学びを深められることは、巡り巡って他者の幸福実現の後押しをすることに通じると心に留めて頂きたく存じます。

 この話をお聞きくださった皆さま、どうか今後とも機に触れ、折に触れ、仏さまの教えに親しんでいただけますようにとお伝え申し上げ、話を終えさせて頂きたく存じます。

                                                       合掌 

【音声法話】

00:00 / 07:06

​令和4年4月の法話

「挨拶していますか」

 兵庫県丹波市 東漸寺住職

不破一浩(第二教区長)

 「挨拶」とは、元々禅宗の用語でしたが後に民間に広がり、人と会ったときに取り交わす儀礼的な動作や言葉、対応などと

辞書にあります。

 皆さんは朝起きて家族同居の方は「おはようございます」と挨拶をされていますか。また学校や会社に行って「おはよう」と

言っていますか。

 私のお寺では、習字に来る子供たちが本堂に上がり、本尊様に合掌したあと、私と挨拶を交わすのでありますが対応は

それぞれで元気よく「こんにちは」という子もあれば、何か言ったかなという子もあれば、無言の子もいます。私はそれぞれの

子供の顔を見てはっきり「こんにちは」と声をかけるようにしております。その内に無言だった子も自然と挨拶できるように

なりました。

 数年前になりますが、ある布教師さんの法話の中で「朝、家人に会った時どうしていますか。」と聴衆に尋ねられたことが

ありました。その場の方々はほとんどがその家のご主人でしたが、やはり反応はそれぞれで、子や妻が挨拶してくるという方や

自分から挨拶する方や特に何も言わないという方もありました。

 そこでその布教師さんは「挨拶はされるものと思っていませんか」と言われたのであります。一般には目下の者から言うことが多いと思われますが、布教師さんは「主人から家族に声をかけましょう。そうすると一日が気持ちよく清々しく始まりますよ」と言われたのであります。

 さて、四月はお釈迦様の生まれ月であり、お釈迦様の産声は「天上天下唯我独尊」であります。これに解釈は色々ありますが、天上天下に唯一人の誰とも代わることの出来ない私という意味であります。

皆様個々が尊い存在であるということを早く発見しそれぞれを尊重しあうことで、素直な心で挨拶を交わし一日を始めましょう。

【音声法話】

00:00 / 02:52

​令和4年5月の法話

「伝承の民話に学ぶ」

 兵庫県丹波市 常照寺住職

山口仙生(第三教区長)

 長松寺の隣村に赤石(あかいし)という村(むら)があります。玄武洞のある村です。そこには「潮垣(しおがき)」という民話が

伝わっています。

 いつの頃か但馬の国 城崎郡(ごおり)(現 豊岡市)の赤石村に一人の浪人が住み着くようになりました。村の子供たちに

読み書きを教えたりしながら暮らしておりました。夏のある日「これだけ日照りが続けば海の潮(しお)が差してくるぞ」「稲が

やられるのは時間の問題じゃ」と円山川(まるやまがわ)の下流にある赤石の村人は大変心配しました。塩害の為、稲作が被害を

受ける事が度々あったのです。

 「潮垣を築いて潮水を防いだら、こんな心配はないのだがなあ」「金もないのにそんな普請(ふしん)が出来るわけがなかろう」と村寄り合いは悲壮な雰囲気で談議は空転するばかりでした。

 その時、件(くだん)の浪人が村人に「拙者(せっしゃ)は村の衆のお陰で生きております。常々何か恩返ししたいものだと思って

おりました」「兄が江戸で勘定奉行をしております。その兄に頼んで潮垣を築く金子(きんす)を借りるように致します」

「どうか皆の力を合わせて、ぜひ潮垣を築きましょう」と提言しました。村人の中には反対する者もいましたが、金を借りる事が出来れば稲を守り、収穫があれば借金を返済出来るではないかと衆議は一致して潮垣を築く事となりました。「今から皆で

頑張れば来年は潮に悩まされないぞ」「浪人さんが金を用立ててくんなるそうだしけい心配はいらん」と赤石村総出で普請に精を出したのでした。

 潮垣がほぼ完成する頃、村人は「浪人さんは江戸から金が届くと言っとんなったが、まだ来(こ)んのう」と言い、費用の支払いをせかされた浪人は毎日玄武洞の高台に登り豊岡の街の方を眺めながら「今に金(かね)が来(こ)う」と言って村人を宥(なだ)めて

いました。兎にも角にも村人は力を合わせ潮垣を築く事が出来ました。しかし江戸からの金子(きんす)は待てど暮らせど

届きませんでした。

 「本当に江戸から金(かね)が来るんけ?あの浪人はわしらをだましているんちゃうか」 「高台で『今に金(かね)が来(こ)う』と叫んでおるがのう、あれは嘘かもしれんぞ」村人は借金の事が心配となり浪人に問いただしました。浪人は村人の罵声を浴び

悲しそうに言いました「半時の後、拙者(せっしゃ)の家に皆の衆に集まってもらいたい、そこで詳しい事をお話し申し上げる」と

家に帰りました。

 半時後、村人が浪人の家に行くと声をかけても返事がありません。何人かが家に入ると白装束で正座をして、刀(かたな)を以て

腹をかき切らんとしているではありませんか。村人は「浪人さん、早まった事しなるな」と叫びましたが、止める間もなく切腹をしてしまいました。

 村人が近寄り浪人を抱えると、浪人は苦しい息の下から「拙者(せっしゃ)は一世一代の大嘘(おおうそ)をつきました」

「勘定奉行の兄や江戸からの金子(きんす)は全て嘘でござる」「毎年、潮に悩まされている皆の衆を見て考えた拙者の一人芝居、

しかし武士に二言無し、命をもって償います」「これからも潮垣を普請した事を思い出して、皆の力を合わせればどんな大変な

事も乗り越えられるのです」と言って事切れました。村人は「わしらは間違っとった。浪人さんの言うとおりじゃ」「そうじゃ

皆の力を合わせれば何でも出来る」「浪人さんありがとう」と口々に涙ながらに叫ぶのでした。

 弔(とむら)いも終わり「浪人さんを神さんとして祀(まつ)ろうではないか」 「浪人さんの心を末代まで伝えよう」と

平安時代からある村の鎮守の兵主(ひょうず)神社の境内に若宮(わかみや)神社を造り、今でも村人は親しみをこめて「若宮さん」と呼称し尊崇されています。

 潮垣は別名、若宮土手とも呼ばれ昭和・平成の河川改修や水田耕地整理までは現存していましたが、今は跡形もありません。

しかし赤石村の人々の心の中には、時代がいくら変わろうとも「若宮さん」の教えが脈々と息づいているのです。

【音声法話】

00:00 / 08:09

 兵庫県豊岡市 長松寺住職

前橋泰信(第四教区長)

​令和4年6月の法話

遠観山里色

 山里は雨に濡れた新緑が美しく、自然界の息吹が感じられます。ウィルスも浄化されることを願います。

愛犬と散歩に出て、久しぶりに近くの谷筋深くまで登ってみました。

 

『遠観山里色』(とおくさんりのしきをみる) 「禅語」ですが、(山頂から遠く谷間の山里を眺め一歩引いて観察してみると、今の実像・本質がよく見えてくる)との意味です。

 

 60戸程の集落を高台から見下ろし眺めていると、時代の移り変わりと今の実情に改めて考えさせられました。

 この時期、谷の奥深くまであった棚田は放棄地となり、道中の家も空き家が多くなりました。以前には食料品や雑貨を扱う店や酒屋、簡易郵便局まで集落の中に有り小さなコミュニティを形成していて、人の交わりも沢山あったのですが。車社会が

出来上がり、大型商業施設などが進出したりで、近所の店が無くなり、コミュニティが崩れてしまいました。少子高齢化も

加速して人と出会うことも少なくなってしまって・・。今日も車とすれ違っただけの散歩になりました。このままでは集落が

崩壊してしまう危機感を覚えました。

 店舗や病院・公共施設・学校も遠くなり、移動手段を失くした人はこの地では生活が成り立たず、仕方なく先祖の地から子の

住む都会へと離れるケースが多く出ています。やがて故郷への想いが無くなった世代がお墓まで都会へ動かしてしまう流れが

私の寺でも近年目立ってきました。

 高齢となり免許書を返納してもご先祖様から受け継いだ大切なものを守り続け、元気な間は生活が続けられるよう社会として

対策を講じなければいけません。過疎地のお寺存続の上でも。

 たまには遠くから屋根や背中を観るのも必要だと感じる散歩となりました。

 

                          

                          

 兵庫県豊岡市 吉祥寺住職

伊藤雅典(第五教区長)

【音声法話】

00:00 / 04:22

​令和4年7月の法話

早いもので

 早いもので、もう今年も半分が過ぎました。七月の声を聴くと、いよいよ夏本番、お盆の季節がやってきます。

“もうお盆”と感じる方も多いのではないかと思います。

 人は、歳とともに一年一年、月日の過ぎるのを早く感じてきます。

これは、フランスの哲学者 ポール・ジャネーが発案した『ジャネーの法則』といって、歳とともに月日の流れを早く感じるようになるそうです。子どもの頃は、一日が長く感じていたのが、経験や体験を積み重ねていくと、歳とともに一日一年が短く感じる法則だそうです。

 月日の流れる早さを、書家で詩人のあいだみつをさんは、「生きているうち 今のうち 日の暮れぬうち」と

人生の短さをいっておられます。

 私たちが読むお経に『参同契(さんどうかい)』というものがあります。

その中に「光陰(こういん)空(むな)しく渡(わた)ること莫(なか)れ」とあり、

また『修証義(しゅしょうぎ)』には、「光陰は矢よりも迅(すみ)やかなり 身命は露よりも脆(もろ)し」とあります。

簡単にいいますと、時の流れは速く、今ある命は儚(はかな)いもので、いつ終るか分かりません。

「一日一日、その時その時を大切に生きなさい」と示されています。

 あの時はこうすれば良かった、ああすれば良かったと何事も後から悔やんでも過去には戻れません。

生きている今日、この一日、この一瞬を大切に、日々を過ごしていただけたらと思います。

00:00 / 02:39

【音声法話】

 兵庫県丹波市 寶林寺住職

飯田正人(近畿管区教化センター布教師)

​令和4年8月の法話

威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)

 私は中学生の時に、師匠に弟子にしていただき出家致しました。出家した日、師匠から

「『威儀即仏法作法是宗旨(いぎそくぶっぽうさほうこれしゅうし)』という言葉がある。これは、

定められた規則どおりの作法で行持(ぎょうじ)を行い、定められた規則どおりの生活を送る。

こうして、身のまわりを整えれば、自ずと心も整い、禅修行に専念することができる。」と言われました。

 中学を卒業して修行道場に入りましたが、修行に行って三年目に師匠が遷化され、私が二十代の頃、亡き師匠の七回忌法要がありました。七回忌の前日、ご一緒させて頂いていたご老僧様に、

「明日の法要で分からないことはないか」と声をかけていただきました。その頃の私は、分からないことがたくさんあり、何から聞いてよいか分からず、正直に「何を聞いたらよいか分かりません」と、答えました。するとご老僧様は「威儀即仏法」と答えられました。亡き師匠が、私が出家した

日に仰ってくださった言葉だったのです。

 ご老僧様の「威儀即仏法」の一言は、「明日の法要は、今まで修行したこと、日々の生活の中で

身につけたことを、行うだけでよい」というように、私は受け止めました。

 未熟な私ですが、住職をさせていただいている今、お檀家様に亡き師匠のことをよく話させて

いただきます。何をしてもうまくいかない、不足ばかりの世の中、まさに「威儀即仏法」の教えが

大事だと感じます。まわりと比べることなく、自分と向き合い己を大切にし、一つ一つのことを

丁寧に行えば、自然と心が落ち着き、不平不満が頭からも心からも消え、「昨日よりも今日が、

充実した一日だった」と思えるようになっていくのではないでしょうか。

【音声法話】

00:00 / 02:16

​令和4年9月の法話

とらわれ

 兵庫県丹波篠山市 岳応寺住職

岸本高明(教化指導員)

 皆さんもよくご存知の『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は、正式には『摩訶般若波羅蜜多経(まかはんにゃはらみた

しんぎょう)』といい、智慧(ちえ)によって彼岸(ひがん)(悟った世界)に至るというみ教えのつまったお経です。

このお経の中心思想というものは「空」というもので、お経の中にも頻繁に「空」の文字が見られます。

 「空」というものは、簡単に表現するならば執着しない・とらわれない心というような意味になります。社会生活において

何ものにもとらわれることなく、生活していくことは難しいことです。他者とのかかわりというものは生きる上で必要なこと

ですし、一人の時間を過ごしていても様々な機器から多くの情報が流れてきます。それらには、どうしても不安に繋がるような

ものや悲しくなるようなものがたくさんあります。そういったものにまったくとらわれることなく、生活することが出来るで

しょうか、どうしても入ってきた情報に惑わされたり、それらに振り回されることの方が多いのではないでしょうか。

 情報の溢れた社会の中で、心身共に疲れてしまうこともあると思います。そういった時に、お近くの寺院やご自宅のような

落ち着いた場所で坐禅をしてみてはいかがですか。坐禅といっても何も難しいことをするわけでもありません。背筋を伸ばし、

吸う息、吐く息に注意して坐禅をしていると、次第に心が落ち着いてきます。

 様々な考えをおし留めるのではなく、ただ受け流していくことで、ものごとに執着しない心が育ってきます。心を空っぽに

することで「とらわれ」のない自由な時間を過ごしていきましょう。

【音声法話】

00:00 / 02:59

​令和4年10月の法話

お 香

 兵庫県丹波市 瑠璃寺徒弟

竹村義晃(教化指導員)

 8月のお盆、9月の彼岸が過ぎ、今年も残り3か月を切りました。御先祖様を大切に思われ、お祀りや

お墓参り等をされた事でしょう。日本に伝わった仏教は、中国で儒教の思想を多く取り入れ、祖先崇拝も大切にしてきました。
 さて、その際にお花や食べ物、お線香をお供えされたことでしょう。香をお供えすることは、お線香の煙が、「あの世」と

「この世」の橋渡しとなり供養になるだけでなく、自分に対しても効果があります。
 11世紀の北宋の詩人・黄庭堅(こうていけん)の作の漢詩『香十徳』というものがあります。日本へは
一休禅師(一休さん)によって日本に紹介されたと言われています。意訳を紹介いたします。
 

  1.      感覚が鬼神のように研ぎ澄まされる
  2.      心身を清く浄化する
  3.      穢(けが)れをとりのぞく
  4.      眠気にとらわれず集中してリラックス
  5.      孤独感を拭う
  6.      忙しいときも和ませる
  7.      多くあっても邪魔にならない
  8.      少なくても十分香りを放つ
  9.      長い間保存しても朽ちない
   10.     常用しても無害

 

 今では、コーヒーの香りや花の香りなど、いろんな種類のお線香が売られています。御先祖様の好きな香りはもちろんの事、

一度、ご自身のお好きな香りを探してみてもいかがでしょうか。そして、心静かに、お供えしましょう。

【音声法話】

00:00 / 02:20

​令和4年11月の法話

落 葉

 兵庫県丹波市 寶光寺住職

樋口孝明(教化指導員)

 山が美しく色付く季節となりました。

日本人は古来より、その季節の移ろいに「諸行無常」を感じてまいりました。

新緑に瑞々しい生命力を、落葉には老いや命の儚(はかな)さを連想します。

 ある日、お寺に庭師さんが来られた時に「今は綺麗ですけど、これが落ち葉になると掃除が大変なんですよねぇ」と

私が愚痴のようにこぼすと、庭師さんは「でも落ち葉が分解され土となり、また木々にとって欠かすことの出来ない

豊かな栄養になっていて、自然は凄いですよ」という話をされておりました。ただ死に絶えていくだけのように見える落ち葉も、庭を散らかすゴミのように見える落ち葉も、私の都合や狭い了見による一面に過ぎないのでしょう。

落ち葉もまた新たな命となり、生命を育んでいます。それは大きな命の営みを教えてくれるようです。

 

 ところで、落葉樹の葉が落ちるのは、いわゆる枯れて落葉するというのとは違うといいます。過酷な冬を乗り越えるために、自ら葉を落とすという手段をとっているという方が的確なのだそうです。禅語に「放下箸(ほうげじゃく)」という言葉があります。簡単にいうと“手放せ”という意味で、執着から離れよという教えが示された言葉です。

 まず欲することに気持ちが動く私達にとって、手放すことは簡単ではありません。私達は、所有している物は

もちろんのこと、過去の経験やプライド、はたまた思考や価値観にいたるまで、手放すどころかしがみつきたくもなるものです。しかし、それらは本当に必要なものばかりでしょうか。心を固く窮屈に縛りつけ、生きづらくしているのは自らの執着かもしれないのです。

 新たな春、新たな命を迎えるために自ずから葉を落とす木々に倣い、執着を手放すことが出来たなら、心が軽く

なり、新たな道を開くための妙法となるかもしれません。

【音声法話】

00:00 / 03:45

 兵庫県養父市 曹源寺住職

梅垣了崇(教化指導員)

bottom of page