曹洞宗兵庫県第二宗務所
令和3年1月の法話
「Aさんのお供え物」
大阪にお住まいのA家の老夫婦のお話です。
初めてお出会いしたのは20年ほど前のことで、私が修行道場での生活を終えて戻ってきたばかりの頃でした。
お二人はいつも仲良く電車を乗り継いでお墓参りに来られていて、師僧である住職に諸用がなければ本堂での先祖供養を
望まれました。その日も住職は快くお受けし、私も共にお勤めさせていただくことになりました。
本堂での読経が始まり、時至って焼香のご案内をしたときのことです。
焼香台に進まれたご主人がそこに正座し合掌されました。じっとして動かれません。そして徐(おもむ)ろに焼香され、
また合掌して座られました。およそ5分程だったと思います。続いて奥様も同様にお勤めになりました。
この時のお二人の振舞いにとても驚いたことを今でもよく覚えています。その時は「丁寧に焼香なされるなぁ」くらいにしか
思いませんでした。
時が経ち、親しくお話しさせていただけるようになった頃のこと。
いつもの通りお参りされるそのお姿を拝見していた時に気づいたことがあります。
Aさんは、今、Aさんご自身をお供えされているのだと。
手を合わせ、一心に拝んでおられるAさんのそのお姿は、まるでご先祖様との会話を楽しんでおられるようで、
「今日もこうして元気に参ることができました。幸せに過ごしております。ありがとうございます。」
そうおっしゃっているようでした。
すでにご夫婦はお亡くなりになっていますが、お二人に倣ってお参りされるご子息も日々の感謝の思いをご先祖様にお供え
されています。
一般的にお供え物といえば「花」「お菓子」「果物」「お膳」や、故人がお好きだった物などが思いつきます。
それらは、ご供養に欠かせないものであり、それぞれが大切なお供え物です。
お参りの際には、今自分が幸せに過ごせていることへの感謝の気持ちも一緒にお供えください。
それが何よりのご供養であり、お供え物となるのではないでしょうか。
【音声法話】
兵庫県丹波篠山市 観音寺住職
紀本亘隆(庶務主事)
令和3年2月の法話
「さあ駅弁の蓋を開けましょう」
安達瑞樹(宗務所布教師)
新型コロナウィルスの影響で、なかなか、お出かけの厳しい状況が続いています。桜の季節には、気にせず旅行ができるよう、
早期の収束を願うばかりです。
さて、旅と言えば列車がその手段のひとつですが、東京オリンピック直前に開通いたしました東海道新幹線は当時、最高時速が
210キロだったそうです。私の最初で最後の家族旅行の時、父親に連れられて食堂車へ連れて行ってもらい、オレンジジュースを
飲んだことを懐かしく思い出します。変わって現代。 2027年に開業予定であるリニアモーターカーは、試験走行で
時速603キロだそうですから、びっくりします。
昔、落語家桂枝雀さんが旅の楽しみに駅弁があるとお話しになっていました。車窓を眺めながらいただく駅弁は最高である。
現地に着いたらどこへ行こうか、などおしゃべりをしながら、おかずをつまむのがいいとのこと。
しかし、技術は日進月歩。列車もどんどん、早くなるでしょう。そのうち、駅弁を買って列車に乗り込み、さあ食べよう!と
蓋を開けたら「終点、東京~東京~♪」なんて時代が来るかもしれません、と懐かしい小噺です。
2月15日はお釈迦さまが亡くなられた日にあわせご遺徳を偲ぶ「涅槃会」です。お釈迦さまはなくなる間際、
「まさに知るべし、世は皆無常なり」とご自身の涅槃をもって無常を説かれました。
私たちは時々、人生の終着駅に着く時間を気にしながら、生活してしまうことがあります。終活という言葉もよく聞くように
なりました。しかし、ふと今の周りの景色を見回してください。見たこともないような花々、まわりで支えてくれる素敵な人々。
きっと、これまでになかった気づきがあるかもしれません。
さあ、今すぐ楽しみ溢れる駅弁の蓋を、開けてはいかがでしょうか?
【音声法話】
兵庫県丹波篠山市 長楽寺住職
令和3年3月の法話
「ステイホームで座禅」
曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」。ただひたすら坐ることだけに徹します。
”集中力を高めたい” ”悟りをひらきたい” そんな計らいは持ち込まず、ただ静かに坐ります。
坐禅とは何かを得るための手段ではありません。坐禅をすれば何か良いことがあるわけでもありません。
ただ坐る、それ以外にはないのです。
腰を下ろして足を組み、背筋を伸ばして身を調える「調身」
ゆっくり息を吐き、ゆっくり息を吸い呼吸を調える「調息」
身と息が調えば、自ずと心が調ってくる「調心」
身、息、心の三つを調えて、ただ坐る。これが曹洞宗の坐禅です。
「帰家穏坐(きかおんざ)」と言う言葉があります。私たちが、長い旅から我が家に帰ってきて、ほっとした気分になる、
そのような心境を表した言葉です。
結果や効果を一切忘れて、ただ坐禅をする。そこには、帰るべき所に帰って得られるくつろぎがいつの間に訪れ、自ずと培われて
育っていきます。目的や計らいを坐禅のなかに持ち込むとたちまちに、坐禅がくつろぎではなくなり仕事になります。
コロナ禍のステイホーム、ご自宅の座布団やイスを使い、ただ坐ることに集中して、今一度自分を見つめ直す時間を
過ごしみてはいかがでしょうか。
【音声法話】
兵庫県丹波市 興禅寺住職
森野大乗(宗務所布教師)
「坐禅のいろは」
〔リンク〕
「いす坐禅のきほん」
令和3年4月の法話
「我以外皆我師也」
あるお檀家さんのお宅に、お葬儀から何日か後の七日参りにお伺いした時のことです。
お勤めを終えて、ご当家の皆さんと一緒にお茶を頂戴していた時、 壁に飾られた色紙に、ある言葉が書かれているのが
目に留まりました。 私がそれをとてもいい言葉だなぁと思ってじっと見ていると、故人の奥様が「主人が亡くなるまでずっと
大切にしていた言葉です」と教えてくださいました。そこには故人の直筆で、自分以外はすべて私の教えの師匠だという意味の
「我以外皆我師也」(われ以外、皆わが師なり)と書かれておりました。これは宮本武蔵などの小説で有名な作家、吉川英治さんが
好んで使われた言葉で、自分以外の人や物、自然などあらゆるものすべてが自分の足らざるを教えてくれる。そんな謙虚な心で生活をすることで、人はより磨かれていくという教えだそうです。
故人は高校の校長として長年ご活躍され、大きな功績を残されたことで大変有名な先生でした。しかしそんなことを鼻に
かけることなく、お出会いしたときはいつも慈愛に満ちたお顔で、私に生き方のヒントになる話を楽しく聞かせてくださいました。
そして今日も、この「我以外皆我師也」の言葉を通して、謙虚に学び続けることで、多くのご縁によって生かされている自分に
気づくことが出来ると教えていただいた気がしました。
道元禅師さまは、仏法において一番重要な問題は「生まれて死ぬ、 この一生をどう生きるのか」だとお示しになられました。
謙虚に学び続けること、それは自分を磨く修行を続けることでもあります。そして己の生き方をお釈迦さまや祖師方のみ教えに
照らし合わせながら毎日を正しく過ごしていく。それが私たち仏教徒のあるべき尊い姿なのです。
【音声法話】
令和3年5月の法話
「してみせるこそ教えなり」
兵庫県丹波市 妙音寺住職
谷 博雄(宗務所布教師)
先日、研修会に出席する為に京都駅から会場に向かっている時のことでした。
季節はちょうど、修学旅行のシーズン真っ只中で駅前には同じ制服を着た大勢の中学生がいました。その横を通り
過ぎて研修会場に向かおうとしたところ、ひとりの男子生徒が近づいてきて「一緒に写真を撮ってもらえませんか?」
と言うのです。一瞬何のことか解らなかったのですが、ふざけているようには見えなかったので承諾したところ、
十人くらいの男女の生徒が一緒に写真に入ってきました。写真を撮った後、口々に「京都らしいよね~」というようなことを言っていたので、遠くから来た中学生が「京都といえばお寺」「お寺といえばお坊さん」と連想して、京都に来た記念にお坊さんと記念撮影をしたかったのでしょう。
そんな様子を微笑ましく眺めていたのですが、その中の1人の女の子が少し申し訳なさそうな顔をして私に向かって手を合わせて頭を下げたのです。女子中学生から合掌されるなんて思ってもいなかったのでいささか不意を突かれ
ましたが、私も慌てて合掌して頭を下げました。その後、研修会場に向かいながら私は「きっとあの女の子の家では
おうちの方がご先祖さまを大切にされていて、毎日お仏壇に手を合わせておられるのに違いない。また、お参りに
来られるお寺さんにも丁寧に合掌してご挨拶をされているのだろう」と思ったのです。
永平寺第七十八世貫首・宮崎奕保禅師さまは生前、よく、
『ああせよと口で言うより こうせよと してみせるこそ教えなり』
と仰っていたそうです。宮崎禅師さまは在家のご出身ですが、百八歳で御遷化されるまで、修行僧よりも一時間も
早く起床され、修行僧と同じ食事を摂り、修行僧と同じ”私”のない生活を送られました。それもみな『してみせるこそ教えなり』という信念のもとになされていたのでしょう。子育てもこれと同じく、まず大人がして見せることがその
第一歩なのです。
“子どもは大人の鏡”とも言われます。子育てにはまずは大人が襟を正し、自分を見つめ直すことが必要なのでしょう。
【音声法話】
兵庫県豊岡市 長源寺住職
木下理晃(宗務所布教師)
令和3年6月の法話
「人にやさしく」
先日、あるお檀家さんのご法事を勤めさせていただきました。施主家当主Aさんのお父さまの十七回忌法要でありました。
Aさんは十六年前の葬儀の時、まだ三十代前半の若さで喪主をお勤めになられました。
「随分若い喪主さまだな」と思った記憶がありました。しかし、葬儀が終わり喪主挨拶の際には、丁寧な口調で、心のこもった
本当に素晴らしいお話をされました。
ご法事の後、Aさんに「喪主のご挨拶がとてもすばらしかったことを今でもよく覚えています」とお話しました。
するとAさんは、
「“愛語能(よ)く廻天の力あることを学すべきなり”という言葉を大切にしています」と答えられました。
“愛語能(よ)く廻天の力あることを学すべきなり”とは、道元禅師さまの著作である『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の
お言葉を集めて作られた曹洞宗の基本経典『修証義(しゅしょうぎ)』の一節であり、思いやりのある言葉には、世の中の情勢を
すべて変える程の力が備わっているという意味になります。
Aさんは、初めて『修証義』を読んだ時、愛語の一節が心に刺さり、それ以後人前で話す時には、まず頭の中で良く考えた上で、
しっかりと言葉を選んで話をするように心掛けておられるそうです。私はその言葉をお聞きし、改めて道元禅師さまのみ教えが
檀信徒の皆さまの隅々まで広く浸透していることを実感し、深い感銘を覚えました。
Aさんは、最後にこんなおもしろいこともお話されていました。「不思議と家族にはできないのですよね」と。
だれしも両親や配偶者、兄弟などにはついつい甘えてしまいます。コロナの流行による自粛生活により、ご家族で過ごされる時間も随分と増えたのではないでしょうか。いろいろとストレスもたまり、イライラする機会も多いかもしれません。しかしこんな時こそ、
お互いに優しい言葉をかけあってみてはいかかですか。きっと安らぎのある時間を過ごせるに違いありません。
兵庫県豊岡市 見性寺住職
河合正志(宗務所布教師)
【音声法話】
令和3年7月の法話
「利他に生きる」
新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、一年以上の月日が経ちましたが、今もなおコロナ禍の状況が続いています。
未知の感染症の前に、今日までの間、大いに試されたのは、社会や政治のあり方などではなく、我々自身だった
ような気がします。自粛する人しない人、買いだめ、転売など、平時にできたはずの気遣いが充分になされていたのか考えさせられます。こういった事態になりますと、いかに私たちの生活が他の誰かに支えられているのかということを改めて実感します。
薬局やスーパーなどに行列をつくり、生活必需品が一時品薄となり大変に慌てましたが、店員さんや流通を担う
方々のご尽力、さらには、逼迫する医療現場に携わる方々の昼夜を厭わないお働きのおかげがあり、今日もさほど
変わりなく豊かな日常を送ることができています。
しかし、ここでよく考えてみますと、各人の働きは、実はコロナ禍以前から粛々と続いてきた事であり、全ての
「あたりまえ」は、知らない誰かの働きによって成り立ち、平時でも外出自粛の中でも他の誰かに支えられて
生きているのです。もう一つ大事なことは、自分自身もまた、他の知らない誰かの支えになっているということです。農業や自営業、サラリーマンあるいは家事も全て立派な仕事であり、日々の自分のなすべき仕事が回り回って誰かの
暮らしを支え、この世の中を成り立たせているのです。
新聞や書籍などで「利他的」「利他主義」という言葉を多く目にしますが、自己の利益のために他者に良い行いを
しよう、とも捉えられるような言葉の使われ方に違和感を覚えます。
利他とは仏教語であり、自分の利より他者の利を優先することを意味します。相手を思いやり、他者のために
すすんで行動することで、巡り巡って自利となります。自利利他の実践は仏教において大変重要な行いであり、
自利と利他は表裏一体のものであります。助け合いや思いやりが相互に重なり、結果的に互いの心が養われ
円満成就するわけです。
道元禅師様は、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう」の巻で、
「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり(利行は仏法の一つであり、広く自他を利益するものである)」と
お示しです。曹洞宗梅花流詠讃歌(ばいかりゅうえいさんか)「四摂法御和讃(ししょうぼうごわさん)」は、
正にこのお言葉を表現した曲でありますので歌詞をご紹介します。
己(おの)れの益(さち)を先とせず 衆生(ひと)の為にとなす利行(わざ)は
生きとし生けるものみなの 光となりて世を照らす
感染症拡大の状況が一年を過ぎ、自粛疲れや窮屈感を覚える方も多いでしょうが、相手の喜ぶ顔や笑顔を
思い浮かべながら行動を考え、日々の暮らしを重ねていきましょう。利他行とは、「自分のことよりまず相手のことを思いやる」ことから始まります。コロナ禍の影響で社会が不安定な今だからこそ、お釈迦様からの大切な教えとして
受け止め、人々が少しでも心掛けて実践して行けば、互いを思いやる本当の心豊かな世の中になるでしょう。
【音声法話】
令和3年8月の法話
「ご先祖様の里帰り」
兵庫県丹波篠山市 弘誓寺住職
能勢隆道(梅花主事)
子(こ)等(ら)の焚(た)く 迎(むか)え火(び)の炎(ほ)の さゆらぐは
みたまの母(はは)の 来(き)たまえるらし
盂蘭盆会(うらぼんえ)御詠歌(ごえいか)【迎火(むかえび)】
八月十三日の黄昏(たそがれ)時(どき)、子どもたちが迎え火をたいています。その迎え火の炎が、そよそよと
吹(ふ)く風にかすかに揺らぎます。その様子を見て「ああ、今年もご先祖様が帰って来られたんだなぁ」と心の中で
つぶやいている、そんな姿が想像できます。
祖先の霊を祀(まつ)る習慣は、東北アジアに多くみられますが、他国では、災いを起こす元凶となる死者の魂を
鎮めるための供養と位置付けられる場合もあります。一方、日本における祖先の霊は「ホトケ様」「カミ様」
「ご先祖様」と呼ばれ、その家を守護し、繁栄をもたらす大切な存在として敬(うやま)われます。
「お蔭様」という言葉のとおり、私たちは知らず知らずのうちにご先祖様に感謝し、身近に感じています。
今ここで無事に過ごせていることも、困難や苦労の中に幸福を感じることができるのもご先祖様の「お蔭」なのです。
お盆はご先祖様をお迎えし、今一度頂いた命、ご縁に感謝するとともに、人間としていかに生きるべきかを
考える機会ではないでしょうか。
※お盆の時期は地方によって様々ですが、七月(新盆)、あるいは八月(旧盆)のいずれかに行われるのが一般的です。
【音声法話】
兵庫県丹波市 日光寺住職
芦田一元(宗務所梅花講師)
令和3年9月の法話
「お彼岸に思うこと」
山川険しき世なれども 仏の教えひとすじに
彼岸に至るしあわせよ あああめつちに陽(ひ)はうらら
久遠(くおん)の救いここにあり (彼岸御和讃1番)
秋彼岸の月となりました。一年のうちで二度、昼と夜の長さが同じになる春分と秋分は、太陽が真東から昇り、
真西に沈むので、その太陽を礼拝し、遥か彼方の極楽浄土に思いを馳せたのが彼岸の始まりです。
これは、日本古来の太陽信仰が起源のようですが、ここに仏教の「中道(ちゅうどう)思想(しそう)」と結びつき、
日本特有の風習として定着しています。
当寺においても、お彼岸の時期になると、日々お参りされている方はもちろん、お彼岸に合わせて都会から帰って
こられたり、遠方の親戚がこられたり、多くの方々がお参りに来られます。
お釈迦様は、
「いつも雑踏の中に身をおいていたのでは正しい考えや判断、決断はできない。静かな所にひとり身を落ち着けて
ごらんなさい。心が落ち着き、正しい考えが生まれます。間違いのない判断ができます」と説かれています。
正しい考え、正しい行いとは何かと疑問を持たれたかもしれません。
私たちは多くの煩悩を持ち合わせていますが、それらに支配されずに偏らないものの見方や考え方を持つことが
「正しい」ことだとお示し下さっています。
私の師匠も生前、法話の中で、
「ご先祖様に褒めてもらえるよう心がけて、行動してください。それがあなたにとっての正しい行いです。」と常々
口にしていました。
師匠は、ご先祖様に褒めてもらえるような生き方を意識すれば、自然と正しい考え方や行動が身についていくと
伝えたかったのでしょう。
秋のお彼岸を迎え、皆さまにはご先祖様をより身近に感じることのできるこの時期に、是非ともお寺やお墓に
お参りください。日常の喧騒から離れて静かな所に身を置くことで、ご先祖様に日々の報告と感謝を伝え、改めて
自分を見つめ直す機会にしていただきたいと思います。
【音声法話】
兵庫県丹波市 宗福寺住職
西村真行(宗務所梅花講師)
令和3年10月の法話
「南無薬師瑠璃光如来」
明治初期、心労の重なった当時の自性院住職が悪質の眼病を患いました。明治十年に眼病平癒、霊験たかき
島根県は出雲の一畑薬師如来の分身を勧請(かんじょう)して当山に安置しました。毎年七月七日には大祭を開き、
大祭役員百二十人が一か月前から準備し、祈祷法要、福引、バザー、夜店、保育園児の作品展などが開かれ、
約一千人の参詣者が訪れます。
しかしながら、この二年はコロナ禍のため山内で祈祷法要を行うのみであります。また五年に一度は出雲の
本山・一畑寺(いちばたじ)に参拝し、お水をいただきに上がるのですが、それも当分行けそうにありません。
薬師さまは目の仏さま、子どもの無事成長の仏さまといわれ、病気を平癒し、身心の健康を守ってくださる
現世利益の仏さまとして信仰されています。薬師如来の特徴は、右手は施無畏(せむい)の印、左手は
与願(よがん)の印を結び、その左手に薬壷(やっこ)を持っておられます。薬壷の中には、体の病、心の病、社会の病をすべて治してしまう霊妙なる薬が入っているとされています。 教えの薬とも言われ、それはお釈迦さまによって説かれた仏教そのものであり、信仰によっていただくご利益です。薬師如来はお釈迦さまと一体であり、お釈迦さまの衆生救済の働きを表わしたのが薬師如来であるとされています。「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」というご真言を一心不乱に唱えることにより、仏に近づき、あらゆる功徳がそのお唱えの中に含まれるとされています。コロナ禍、世界中で毎日死者が出て、身近な人々が次々と感染し、重症化し、毎日怯えて暮らさなければならなく
なってしまいました。この先も全く見通しが立たない中で、子どもたちが本当にかわいそうでなりません。
修学旅行にも行けません、運動会もできません、キャンプにも、海にも…なんとかお薬師さまのお力で、世界中を
お救いいただきたいと祈るばかりです。
夏休みに行き場がなくなったボーイスカウトの子供たちを唯一受け入れてくれたのがお寺での坐禅体験だったと
ボーイスカウトの役員の方が喜んで帰られました。一日も早く特効薬ができることを願ってやみません。
〔薬師如来御詠歌〕
南無薬師 諸病なかれと願いつつ 詣るる人を平等にして
【音声法話】
兵庫県豊岡市 自性院住職
田中圭春(宗務所梅花講師)
令和3年11月の法話
「先祖供養において」
檀家さんのご自宅で法事をお勤めする時、まず初めに読ませていただく回向文があります。出典は
「當用行事回向集」(井上義臣著・愛知正和会発行)という、いわば住職の虎の巻のような本ですが、私は普段から
これをよく参考にさせていただいております。その中に過去帳の序文というものがあり、とても感銘を受けたので、
これを法事の前に読み上げさせていただいております。ここで全文をご紹介いたします。
歴史は何物より尊く、過去帳は当家の歴史なり。祖先を敬慕し、祖先を供養し、祖先を語る処に自重心生じ、
自誠心生じ、家門いよいよ繁栄す。一草一果にてもこれを仏前に供えて礼拝供養すれば、敬虔の念自ずから湧き功徳
無辺なり。深く因果の道理を信じ、篤く仏法僧の三宝に帰依し奉れば冥助自ずから至る。
枝葉栄えんと欲せば、先ずその根を養うべし。この故に仏教恒に四恩に報ず。清浄の信心良く相続し去らば、祖先の余慶必ず子孫に及ぶ。子、親を忘るとも、親、子を忘るることなし。その家系を守護するもの、親祖先に如くはなし。
今、我れ父母祖先を偲ぶ時、その怨霊直に我が体と倶に在り、豈(あに)喜ばざらんや。祖先常に我と倶に在り、この
心の裕さ、この心強さ、しかもその冥加は、めぐり来たる災難を転じて吉祥となし、家運又必定して繁栄す。故に
古(いにしえ)より「身を立て家を興す人、必ず先亡の供養を怠るものなし」と、又「積善の家に余慶あり」と。正に
是れ因果の法則なり。是れを忘れ是れを怠る者は、唯に今の己の在り様あやまるのみならず、明日の己が運命を
忘れたるなり。経に曰く「善根山上更に一塵も積むことを怠ること勿れ、功徳海中更に一滴も漏らさじと努力すべき
なり」と、まさに是れ仏行なり。先亡の精霊すでに御仏となりて、釋迦牟尼佛と倶に我を護り給う。我、父母より
享(うけ)し此の体、即ち祖先の血、祖先の肉、祖先の心なるべし。体の総てを投げ入れて厚く御仏に帰命し奉り、
祖先と倶に清く明るき慈悲の仏光明の中に在る事を悦び、且つ誓う。即ち大慈悲の心に帰り、常に大慈悲を行ず。
先亡の供養是れに勝るものなし。更に何れの処に向かって利益を冀わんや。
日々の礼拝供養ただ斯の如し。
如何でしょう、皆が常にこのような気持ちをもって先祖供養したいものです。
どうか皆様もご先祖様や仏様のみ教えを信じて、感謝の気持ちを忘れず、日々精進することが先祖供養に
つながるものだと思います。
【音声法話】
兵庫県養父市 宗恩寺住職
別所道眞(宗務所梅花講師)
令和3年12月の法話
「法事について考えてみる」
師走に入り、今年も間もなく終えようとしています。今年も新型コロナウイルスの猛威によって、様々な行事が
延期や中止になってしまいました。それは供養の場であっても例外ではなく、お葬式の縮小や法事等の簡略化が目に
見えて増えています。中には親族を招き、たくさんのお参りの中、法事を勤めたいと思われている方もおられますが、時節がそれを許しませんでした。そのような方には「コロナが落ち着いたら年忌に拘わらず法事をしてみては如何
ですか」とお話ししました。
皆さまの菩提寺でも新年にその年の年忌繰り出しが貼り出されると思います。あえて貼り出すのは、お家の方が
日頃の喧騒の中、法事を営む事によって亡き方をゆっくりと思い出す、またその繰り出しを見た近所の方が亡き方の
思い出話をしていただく、そして何より確実に時間は過ぎているという事を自覚する為だと思います。
当山でも、本年12月に13回忌の先住忌法要を修行させていただきます。12年の年月は長いですね。小学校1年生
だった子どもが高校を卒業する年月です。私自身も年月による体調の変化を日々感じています。「諸行無常」聞き
なれた言葉ですね。人は年を取り、物は古くなり、記憶は風化され、時間がたてば故人の思い出も薄らいでいきます。そんな中、法事を営む事によって、故人が心の中で生き続けておられる事に気がつきます。
法事はしなくてはいけないから仕方なく営むものではなく、故人を思い出し、家族や親族の方を故人で繋ぐ大切な
時間だと思って営んでいただければ、きっと心安らぐありがたい時間になると思います。
【音声法話】
兵庫県養父市 洞仙寺住職
武内良太(宗務所梅花講師)