曹洞宗兵庫県第二宗務所
令和2年1月の法話
「心の再起動」
当山では毎年大晦日に「除夜の鐘を撞く会」が開催され、多くのご参拝をいただいています。人間には百八の煩悩があると
され、鐘の音に一つ一つその煩悩をのせて消し去り、新たな心持ちで新年を迎えましょう、というのがその意義です。
一年365日、毎日夜中の12時には日付がかわり、しばしばその時間まで起きていることがありますが、普段その瞬間を
意識することはありません。
近年一部の伝統儀式が存続の危機を迎えています。「餅つき」「除夜の鐘」がその代表的なものですが、理由は「衛生的で
ない」「うるさい」というものだそうです。習慣や常識、また意識も時代の流れにのって変化することは否定すべきではない
ことですが、消滅させるにはあまりにも惜しいと感じる人は少なくないのではないでしょうか。
ところで皆さんは「スマートフォン」お使いですか?携帯電話が普及し始めたのが約二十五年ほど前だと記憶していますが、
最近は「ガラケー」と呼ばれる携帯電話を席巻するようになりました。「アプリ」と呼ばれる様々な便利なプログラムが出回り、
携帯電話以上に便利になりました。手帳を持ち歩くことが無くなった人もたくさんいるでしょう。しかしだんだんと動作が鈍く
なったり、アプリが起動しなくなったりすることがあります。そんな時は「再起動」いったんリセットさせるわけです。
詳しいことは分かりませんが、使っているうちに余分なモノが溜まって、プログラムが正常に実行できないのだそうです。
何だか煩悩によって正しい心の活動が出来なくなった心にも似ていませんか?
梅花流詠讃歌の中に「修証義御和讃」という曲があります。
生々世々(ふりにしよよ)の罪(つみ)咎(とが)は 深雪(みゆき)のごとくふかくとも
悔(く)ゆる心(こころ)の朝日(あさひ)には 消(き)えて跡(あと)なくなりぬべし
ここでいう罪咎とは、法律や道徳でいう罪ではなく、お釈迦様の教えからはずれた生き方をいいます。
つまり貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと痴(おろ)かさ(貪瞋痴・とんじんち)といった根本煩悩によって引き起こされる
身と口と意(こころ)による行為とその結果をいいます。「朝日」はお釈迦様の教えのたとえであり、「生々世々」とは、
遠い昔のことばかりをさすのではなく、これから未来をどう生きていくのかをも表す言葉です。
年末年始の伝統儀式は、普段の日付の変わり目は意識しないのに、大晦日、除夜の鐘の音を聴くと心が入れ替わり、
なぜかしら過ぎた一年を振り返るより新しい一年に向かって進む意欲がわいてきます。
現代人にとって伝統儀式を「古きもの」と受け取る方が多いように思いますが、ここには先人たちの智恵や思いなどが
たくさん詰め込まれているのです。変化や進歩の中で生きている私たちですが、一度立ち止まって周りをゆっくりと見渡すくらい、心に余裕があってもいいのではないでしょうか。
兵庫県丹波市 日光寺住職
芦田一元(宗務所梅花講師)
令和2年2月の法話
「自灯明 法灯明」
梅花流詠讃歌の中に「大聖釈迦如来涅槃御詠歌(不滅)」という曲があります。
ひとたびは 涅槃の雲に いりぬとも
月はまどかに 世を照らすなり 世を照らすなり
2月15日は涅槃会といって、お釈迦さまのご命日です。「ネハン」とはロウソクの火が静かに燃え尽き、消えていくという意味で、
お釈迦さまのご臨終をよく表している言葉だと思います。
全国の寺院では、涅槃会に涅槃図というクシナガラの沙羅双樹のもとで、まもなく涅槃に入られるお釈迦さまの周りを、
諸仏諸菩薩や多くの弟子たち、動物たちが悲しんでいる情景を描いたお軸をかけてご供養しています。
また、お釈迦さまがご生涯を終えられることを感じた弟子・阿難陀(あなんだ)は、悲しみのうちに最後の説法をお願い
しました。
お釈迦さまが入滅された後、どうすればよいか、まったく分からないと嘆く弟子たちに向かって、
「いざ弟子たちよ、別れを告げよう。嘆いてはいけない。生まれたものが必ず死ぬという説法は、何度も繰り返したはずである。
何を泣くことがあるだろう。今一度説いておく。自分こそ自分自身のよりどころではないか。自分は自分自身の灯の役目を
果たしているのではないか。自分自身の他に、どこによりどころを求めるのか。私の亡き後は、私の示した法をもとにして、
よく整えられた自分自身をよりどころとするがよい。怠らずに励め・・・」
と示されました。
このように、自分がいなくなっても、自らをよりどころとして、仏の教えや物事の真理をその指針として生きなさいと
諭されたのが「自灯明 法灯明」です。お釈迦さまという大きな支えがなくても、これまでの説示を土台として自分を信じ、
しっかりと物事を判断し生きよとのみ教えでありました。
前述の詠讃歌は、お釈迦さまを輝く月になぞらえています。夜を照らす月が雲間に入って暗闇が訪れたとしても、実際は雲に
遮られて我々に見えないだけで、月は雲の上で輝いているのです。それと同じように、お釈迦さまが入滅されても、私たちの
胸の中に仏の教えとして生き続けておられ、導いて下さっているのです。
涅槃会にちなみ、あらためてお釈迦さまの最後の説法である「自灯明 法灯明」のみ教えを噛みしめ、私たちの実生活の中で
生かしていきましょう。
兵庫県丹波市 宗福寺住職
西村真行(宗務所梅花講師)
令和2年3月の法話
「同じ道を歩く友」
「この曲は皆さんと一緒にお唱えする喜びを声にしてくださいね。」
その日の御詠歌のお稽古で、「同行御和讃」という曲を皆でお唱えしました。みな共に仏さまとして、お互いを大切にし、
一緒に修行の道を歩みましょうという歌詞です。教える私にも皆の明るい声に乗ってその喜びが伝わってきました。
(一)同じ仏の御子(みこ)として むすぶ心の浄き友 互いに励ましいたわりて 同行同修の道をゆく
(二)日々につとめを果たしては 夕べにおもう仕合せよ 教えの一つ一つこそ くまなき慈悲の光なり
(三)行く手はるかを見わたせば 道の真実(まこと)はすぐ近く 互いの胸にあるを知る 同行同修のよろこびよ
ところが参加者の一人で、いつも笑顔でムードメーカーの〇〇さんのお唱えがいつもと違います。「〇〇さん、この曲は
明るいイメージで声を出してください。表情が暗いと声も暗くなってしまいますよ。」でも彼女の表情は変わらず、元気が
ないようです。「実はねえ・・・。」彼女のお話を聞くと、ご主人が病気で入院され、この日は気分転換に看病を家族に任せ、
御詠歌の練習に来られていたのです。彼女の表情が暗かったのはそのためでした。
こんなお話を聞いたことがあります。丹波篠山市の前川澄夫さんは若いころ、大阪フィルハーモニー交響楽団のビオラ奏者と
して活躍されていました。当時前川さんは西洋音楽を中心に演奏されていたので、それに比べて古い日本の音楽は単純で幼稚な
ものと思われていたそうです。しかし、故郷に帰ったある日、年老いた母親が小さな声で歌う地元の民謡を聴いて、歌う人が
嬉しい時は嬉しそうに聴こえ、悲しい時は悲しそうに聴こえることに気づいたそうです。人の心を映し出す日本の音楽に魅了
された前川さんはその後、地元の民謡を研究されています。御詠歌も民謡と同じように日本古来の音階で作られた曲がたくさん
あり、「同行御和讃」もその一つです。
お稽古の休憩時間には、〇〇さんを励ます声が聞かれました。不安で落ち込む彼女の心を映し出したそのお唱えから、いつも
参加されているお友達も事情を察していたようです。社会では同じ職場や学校で、同僚や同級生などによる悪口やいじめといった
嫌がらせの話題が絶えません。同じ道を歩む仲間でありながら、お互いを尊重できないことは組織の崩壊にもつながります。
「さあ、もう一度皆でこの曲をお唱えしましょう。」
休憩も終わり、〇〇さんの表情も明るくなってきました。御詠歌を一緒にお唱えするということは、仏さまのみ教えにつながる
体験を共有するということです。そんな仲間がいることの喜びや幸せをお互いが感じた瞬間でした。
兵庫県丹波市 青蓮寺住職
荒木伸雄(宗務所梅花講師)
令和2年4月の法話
「南無観世音菩薩」
長きに渡り当山と檀家の皆様をご守護くださっているご本尊・十一面観世音菩薩ですが、近年汚れと傷みが激しくなり、この度
檀家の皆様のお力をいただいて修復を行いました。修復後、檀家の皆様にご参集いただき、開眼供養を厳修し、ご本尊様に山門
繁栄、檀信徒各家の先祖追善、家門繁栄、子孫長久、そして度重なる天災で被災され、亡くなられたみ霊への鎮魂、また早期
復興、世界平和を祈念いたしました。
日本では古来より観音信仰が盛んで、ここ但馬地方でも観世音菩薩をご本尊としてお祀りする寺院が多く、観世音菩薩を信仰
する人々の集いである「観音講」が今でも残っています。大聖寺のご本尊・十一面観世音菩薩は、頭上に十一面のお顔があり、
すべての方角を見渡して、苦しんでいる人を助け、怒っている人をなだめ、落ち込んでいる人を励まし、悪い行いを戒め、救いを求める人に手を差し伸べるなど、それぞれの願いに応じて様々なお姿で現れ、大慈悲で救ってくださいます。また、観世音菩薩の広大な功徳を讃えるお経である『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』の陀羅尼(呪文)の部分で、曹洞宗の寺院においてもよく読誦される『大悲心陀羅尼』は、唱えることによりあらゆる災害、病気から身を護り、菩提心を起こすことができるといわれています。
よく「観世音菩薩は男性ですか?女性ですか?」と尋ねられます。諸説ありますが性別を超越した菩薩(仏)であります。ただ
観世音菩薩は女性として、母としてよく例えられます。母とは自分の命に代えて子供や家族を護り貫く心、情け深く、耐え忍び、
許し、愛心の基となる心の働き、慈母心をそなえた人、観世音菩薩そのものであるからです。
日本では、観世音菩薩以外の菩薩としては地蔵菩薩がよく知られています。特に子どもの護り仏として、事故のあった場所や
各地区に祀られ、日々守ってくださっています。また文殊菩薩も、ことわざにある「三人寄れば文殊の知恵」などでよく知られて
います。菩薩とは、自分のことを中心に考えるのではなく、すべてを等しく救う存在、まさに利行を行う存在なのです。
私たちが菩薩に近づくためにどうすればよいのでしょうか。菩薩の精神を現した実践として、ボランティア活動があげられます。
阪神淡路大震災の発生を機に発足した、兵庫県第二宗務所青年会や但馬曹洞宗青年会はこれまで、平成16年に発生した台風二十三号や東日本大震災、丹波市土砂災害、また熊本地震でも災害復興ボランティア活動を行い、災害義援金托鉢、身体に障がいがある
人々への支援活動に参加してきました。その現場で見られる、時間を忘れて熱心に泥かきを行い、炊き出しをし、障がい者に寄り添う青年僧侶の姿は、まさに菩薩行の実践そのものであるといえます。
観世音菩薩の慈悲心を表現した曹洞宗梅花流詠讃歌がありますので、紹介いたします。
『観世音菩薩御詠歌(慈光)』
たのもしなあまねき法の光には
人の心のやみものこらじ
観世音菩薩のお力を信じ、信仰すれば大悲心で私たちを包み、暗い闇を照らし、正しい道を照らしてくださり、生きていく力を与えてくださる、といった意味になります。私たちは常に観音様の功徳の光によって、道を照らしていただいるのです。
合掌
兵庫県豊岡市 大聖寺住職
田中圭春(宗務所梅花講師)
令和2年5月の法話
「花まつり」
梅花流詠讃歌の中に「釈尊花祭御和讃」という曲があります。
天にも地にもひとりなる 尊き我に目覚めよと
教え給いし法の花 後の世までも香るなり
四月八日はお釈迦さまのお生まれになった日、花まつりです。「降誕会」「潅仏会」ともいいます。花御堂(はなみどう)には、
お釈迦さまの誕生仏をおまつりし、甘茶をそそいでお祝いします。
お釈迦さまがお生まれになった際、七歩歩まれ、右手を天に、左手を地に向けて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ
ゆいがどくそん)」と宣言されたといわれています。七歩は六道(天上・人間・修羅・餓鬼・畜生・地獄)から一歩進んだ世界、すなわち悟りの世界を意味しています。さらに、お釈迦さまだけがただ尊いという意味ではなく、この世に生まれた者は
皆等しく、たった一つの尊い存在なのだとお諭しになっておられます。居丈高に自分のことを誇り、他人を欺くのではなく、
欺こうとしている人でさえも、自分と同じ唯一無二の存在なのだから大切にしましょうとお示し下さっているのです。
当寺では月遅れの五月五日に花まつりと納髪供養を併せて執り行っています。納髪供養といいますのは、五月五日までに忌明けした新霊さんの遺髪を髪塚にお納めする行事です。当寺では葬儀の際、遺髪を少し取ってお預かりしています。人の髪の毛と
いうのは切っても切っても生えてくるものです。煩悩や欲も同じで、叶えてもかなえても次から次ぎへと湧き出てきます。人は
亡くなるとお釈迦さまのお弟子となり、お釈迦さまの御元へ行くといわれています。納髪供養は、人間の煩悩や欲に喩えられる
髪の毛をお釈迦さまにお返しする重要な行事なのです。
私たちが普段命の重さを実感することは滅多にありません。私たちの生活の中でいえば、子どもが産まれた喜びや身近な人が
亡くなった悲しみに接したとき、命の重さを実感するものです。「天上天下唯我独尊」のみ教えとは、自らの存在を見つめ、
尊い命を輝かせることで一度しかない人生を悔いなく過ごせというお釈迦さまからの力強いメッセージなのです。皆さまも
お釈迦さまのみ教えに触れていただくためにも、ぜひお寺におこし下さい。
兵庫県養父市 洞仙寺住職
武内良太(宗務所梅花講師)
令和2年6月の法話
「行雲流水」
禅語で『行雲流水』という言葉があります。大空を行く雲のように何ものにもとらわれず無心で、また川を悠々と流れる水にも似て、決まった型にはまることのない自由で束縛のない心の状態を表した言葉です。修行僧のことを「雲水」と呼びますが、これは『行雲流水』の雲と水からきたもので、定まった居場所を決めることなく、決して一カ所に留まらず、良き師匠との出会いを
求めて、修行を続けていくことに由来します。
私たちはもっと楽をしたい、もっと美味しいものを食べたい、もっとお金持ちになりたい、などたくさんの煩悩を抱えて生きています。人間である以上、こうした煩悩は誰しも必ず持ち合わせています。考えてみると煩悩ほど、始末の悪いものはありません。打ち消しても、打ち消しても、次から次へと湧き出てくるのが煩悩です。人は、煩悩によって自ら苦しみを背負い、不幸になっていくことが多いように思います。
そこで私たちは煩悩とどう向き合っていけば良いかといえば「少欲知足」、つまり「欲を少なくして、足ることを知る」という
考え方が重要になってきます。
道元禅師さまが遺された書物の中に「放てば手に満てり」という言葉があります。欲を握りしめたままでは何も掴むことが
できません。しかし、手を放せば欲や執着から解き放たれ、何でも自由に掴むことができるのです。道元禅師さまは、どんな小さな
ことでも、それを得た喜びを知り、それに感謝できる心を持つことが、煩悩とうまくつきあっていく最善の策であると示して
おられます。
大空を自由に行く雲のように、川を悠々と流れる水のように、煩悩に振り回されず、自由な心持ちで過ごして行くことが、
やがて幸せへと繋がっていくのです。
兵庫県丹波篠山市 蔵六寺住職
片瀬道昭(教化主事)
令和2年7月の法話
「蓮の花」
私が住職をしているお寺の本堂前には、毎年七月中旬から八月にかけてたくさんの蓮の花が見頃を迎えます。
これらの蓮は、本寺・太寧寺さまからいただいた蓮や先代住職夫人の寺族さまが故郷より持参された蓮を株分けしたものです。
私自身まだまだ素人で、なれない株分けに悪戦苦闘しましたが、今年もたくさんの蓮鉢を本堂前に並べることができました。
泥水を吸い上げながらも美しい花を咲かせる蓮の花は、仏の智慧や慈悲の象徴とされ、「煩悩の汚れの中でも決して染まらない、
清らかで純真な心」を表現しているといわれています
また蓮の花は、他の植物にはない特筆すべき特徴があります。私たちが知るほとんどの花は、咲き終わってから実(種子)を
つけます。一方蓮は、苞(つと)とよばれるシャワーヘッドのような形状の花芯のひとつひとつに実が入っており、花をつけると
同時に実をつけます。仏さまの教えに照らしてみれば、私たちは生まれながらにして、すでに仏さまになる為の実(仏性)を
体内に具えていて、その実をじっくり育てていくことが大切であると示しておられます。
このように仏教でもご縁のある蓮の花ですが、五つの特徴になぞらえた「蓮の五徳」というものがあります。
・淤泥不染(おでいぶぜん)の徳
・一茎一花(いっけいいっか)の徳
・花果同時(かかどうじ)の徳
・一花多果(いっかたか) の徳
・中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳
このうち、「中虚外直の徳」についてお話します。皆さんは、初夏の風物詩の一つである「象鼻杯(ぞうびはい)」という習慣を
ご存じでしょうか。撥水性になっている葉と茎がストロー状になっている性質から、蓮の葉にお酒をついで茎の先からお酒を
飲むといったものです。茎が立って、その先に花をつけている様子は一見すると弱く、すぐに折れてしまいそうですが、
実際は空洞が茎の中にあることによって強度が増しているのです。人間に例えるならば、弱くとも信心をいただくことにより
苦難を乗り越えていける強さを得ることができるということです。私たちが蓮の花を見ることで、信心を得ることの大切さを知り、人生の方向を確認することが出来るのではないでしょうか。
身近な植物からも教えられることはたくさんあります。私自身も、途切れることなく咲くことを願いつつ、日々学んでいこうと思っております。
兵庫県丹波篠山市 長源寺住職
溝口泰守(教化指導員)
令和2年8月の法話
「新型コロナウイルスと自利利他(じりりた)」
今、新型コロナウイルスが猛威を振るう中、世界中の尊い命が危機にさらされています。その恐怖からマスクやアルコール
消毒液を必要以上に買い占めたり、それらを高額転売して利益を得たりするといった自分のことしか考えない人の行動が
目立ちました。
私が勤めている学童保育の児童は「ドラッグストアにマスクがあるとおばあちゃんが帽子や服を何度も着替えてお店を出入りし、一人一点までのマスクを複数購入しているから家にマスクがいっぱいある」と話してくれました。その一方でマスクが手に
入らないので汚れたマスクを何日も続けて着用してくる児童もいました。
マスクは自分への感染を防ぐというよりもくしゃみなどで他人へ飛沫感染させることを防ぐことに有効とされています。つまり、自分一人がいくらマスクを持っていても効果はあまりないということです。
仏教には「自利利他」という考えがあります。「自利」とは自分の利益(りやく)になること、「利他」とは他人を
利益(りやく)することです。つまり、「自利利他」とは他人の為にしたことが、自分の為になるという意味です。一時は他人に感染させない為に各々が自粛し、出来る予防対策をした結果、感染者が減り、自分が感染する危険性が減るという好循環が
生まれました。しかし、経済活動が再開し、自粛から解放されることで、再び感染が拡がるのではないかと危惧しています。
いま一度「自利利他」を心に留め、自分を守るには自分のことばかり考えて行動するのではなく、他人を思いやる行動を取る
ことが大切なのではないでしょうか。
兵庫県丹波市 也足寺徒弟
吉田和也(教化指導員)
令和2年9月の法話
「愛語」
お釈迦さまは「自分を苦しめない言葉、また人を傷つけない言葉のみを語れ」と説かれました。
道元禅師さまも正法眼蔵「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」で
面(むか)いて愛語を聞くは、面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす
面(むか)はずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず
と示しておられます。これは、面と向かって真心や愛のある言葉を聞くと、人は喜びが顔に現れ、心が楽しくなってくる。
かげで真心のある言葉を人伝えに聞くと深く心に刻まれる、という意味です。
インターネットが発達することによって、自分のことを世界中に発信することができるようになり、そのおかげで様々な人から
多くの共感や称賛が得られるようになりました。そのような中、匿名で投稿できることから、批判にとどまらず、人格やその言動のすべてを否定するケースも少なくありません。
インターネット上で「自粛警察」という言葉を最近よく目にします。これは、新型コロナウィルスの影響により自粛行為が
広がる中で、他人の行動にも過剰な興味を持ち、自分の意にそわない行動をする人に攻撃を加える行為です。中にはマスクを
していなかった小さな子どもに、脅しのような言葉で罵った人もいたようです。
人は間違ったり、見落としたりすることがよくあります。そしてそのことを他者に指摘されることによって気づかされる一方、
他者を攻撃することで自己満足や欲求不満のはけ口としている人も多くなっているように思います。
どんな時にも思いやりを持った優しい言葉をかけていきたいものです。
兵庫県丹波市 明勝寺住職
大菅哲哉(教化指導員)
令和2年10月の法話
「僧侶のお袈裟」
実りの秋を迎え、収穫作業に励まれる生産農家の方々の姿をよく目にします。周辺の水田からは稲刈りをするコンバインの音が
よく聞こえてきます。とれたての新米はとても美味しく、何杯でも食べられる気がします。
僧侶が法要で身につけるものの一つにお袈裟があります。お袈裟は一枚布で出来ているように思えますが、よくよく見ると
四角い布がつなぎ合わされて作られているのが分かります。これには、水田が深く関係しています。
お袈裟の由来は今から約2500年前、インド国内にあったマガダ国の王さまがお釈迦さまにお会いになった時、お釈迦さまと
他教団の修行者を見間違えてしまいました。この一件から王さまは、お釈迦さまに他教団の修行者と見分けのつく衣服を身につけて
ほしいとお願いされました。納得されたお釈迦さまは、ある村を訪れた際に、きれいに整えられた水田の風景を見て、この水田の形のように布と布をつなぎ合わせてお袈裟を作ろうと決意されました。お釈迦さまはお弟子たちに対して、水田に種を撒くと実りがあるように、善行の種子を蒔いて功徳の収穫をもたらす為にも、仏さまのみ教えの象徴であるお袈裟の力によって、一人でも
多くの人々を救うのだと示されました。お袈裟のことを別名「福田衣」(ふくでんえ)と呼びますが、「福田」とは福徳を生み出す
田という意味で、仏さまの無量の功徳を創出するところを田に喩えたものであります。私たちがお袈裟を身につけるということは、まさに仏さまのみ教えを身につけることであり、仏さまの命を相続することであります。
私たち僧侶がお袈裟をかける時、まず両手で持ち、額に念じてから頭上にのせ、合掌して次の偈文をお唱えします。
【搭袈裟の偈(たっけさのげ)】
大哉解脱服(だいさいげだっぷく)
無相福田衣(むそうふくでんえ)
披奉如来教(ひぶにょらいきょう)
広度諸衆生(こうどしょしゅじょう)
お袈裟は単なる法衣ではなく、「仏さまの命」そのものであります。私たちがお袈裟を身につける時、この偉大なるお袈裟の
功徳によって、人間のあらゆる煩悩、執着心を取り除き、お釈迦さまのみ教えを広め、生きとし生けるものすべてを救おうと
心に強く誓うのです。
私たちは日々この覚悟をもって、お袈裟を身につけているのです。
兵庫県豊岡市 常光寺徒弟
福井易宗(教化指導員)
令和2年11月の法話
「心閑かな時間を味わう」
晩秋から初冬へと季節が移っていきます。辺りの木々も紅葉し、日ごとに鮮やかさを増していきます。美しい錦繍の彩りは
私たちの目を楽しませてくれます。それが終わると落葉の時を迎え、さらに短くなっていく日照時間。この時期になって
くるとなんとなく慌ただしく日々の生活に追われていく、そのように感じられる方も多いことでしょう。
それでなくても、私たちの生活は交通の便が良くなり、さらにはパソコンやスマートフォンなどの機器で多くの情報を得る
ことができることで、かえって忙しさが増しているように感じることがあります。利便性の向上や技術の進歩は必ずしも
ゆとりを与えてくれるものではないようです。
「心閑則為貴」(心(こころ)閑(しず)かなれば則(すなわ)ち貴(とうと)しと為(な)す)という言葉があります。心閑かな時間は
貴重で豊かな時間であるという意味です。一日の中に少しの間でも意識的にそのように過ごす時間を作ってみてはいかがで
しょうか。
たとえば坐禅がそうです。姿勢を調え、息を調えて、すべてを解き放つ時間です。関節が痛い方や曲がりにくい方は無理を
せずに椅子に浅く腰を掛け、姿勢と息を調えていただくだけで構いません。道元禅師さまが著された『普勧坐禅儀(ふかん
ざぜんぎ)』のなかに、「所謂(いわゆる)坐禅とは習禅には非ず唯(ただ)是(これ)安楽の法門なり」とあります。何かのためという目的や手段ではなく、解き放つことそのものが安らぎの入口であると示されているのです。
このように、より速く、より効率的に成果を求められる社会生活の中でも、たまに立ち止まる。自分と向き合い、本来の
自分に出会う大切な時間をぜひ味わってみてください。
【音声法話】
兵庫県丹波篠山市 長松寺住職
吉田秀幸(人権擁護推進主事)
令和2年12月の法話
「インターネットと誹謗中傷」
インターネットやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)により、また一段と便利な世の中になりました。
しかしどんなものであれ、使い方は私たち次第であり、そのことをよく踏まえておかなければなりません。
自由を生みだすように見えたインターネットも、時に私たちを苦しめるものになっています。
最近では、インターネット上で誹謗中傷が横行し、大きな社会問題になっています。特に失敗や過ちを犯した人には
大変厳しいものとなります。しかし仏教では、無闇に人の過失を揶揄してはならないと説いています。
決して完璧な人間など存在しません。無論、自分もそうであるということをいつも自覚しておきたいものです。
諺(ことわざ)で、「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があるように、他人の良い所、悪い所を見定め、常に自らの
行いを戒めることが肝要です。「自分が正しいから」「相手が間違っているから」という理由で驕りを持ったり、
相手を傷つけたりしてはいけないのです。それは倫理的な意味のみならず、それによって誰も幸せになることがないからです。
「誹謗中傷のおかげで私の人生が輝きました」とはなりません。むしろ、毒牙となり自分自身を蝕んでいく危険なものと
なるのです。
特にネットの世界は、その匿名性により、自らは何の責任もとるつもりもない言葉が溢れやすい環境です。
お釈迦様は、「人は口の中に斧を持っている」と言われました。言葉は誰かを深く傷つけるかもしれないものだと
理解しておくことも大切です。
お釈迦さまの時代にも、お釈迦さまを嫉み、誹謗中傷をする男がいました。その男は、とうとうお釈迦さまの面前に
進み出て酷く罵ったといいます。お釈迦さまは、散々いわれのない悪口を好き勝手に言われたにも関わらず、怒るでもなく、
言い返すでもなく、ただ聞いているだけでした。
何の反応もしないお釈迦さまに、だんだん男は苛立ち、結局面白くなくなって、その内、悪口は止みました。
その時、お釈迦さまは問いました。
「ところで、人に贈り物をしようとして、相手が受け取らなかったら、その贈り物は誰のものでしょうか?」
男は愚問だと言う顔で答えました。
「相手が受け取らなければ、その贈り物をしようとした奴のものに決まっているだろう」
しかし、答えてすぐに察したのでした。お釈迦さまは、
「そうですね。私はあなたの言葉を何一つ受けとりませんでした。だから、あなたが言ったことは全て、あなたのもとに
返ってくるのですよ。」
そう話されたといいます。
現在もいわれのない誹謗中傷に苦しんでいる人がたくさんおられます。
しかし、私たちがそのような言葉を受け取る必要もありませんし、そうした言葉によって自分自身の重要なものは
何も損なわれないことを忘れてはなりません。
【音声法話】
兵庫県養父市 曹源寺住職
梅垣了嵩(教化指導員)